まあどなたかが言う通り

黒崎さんを私が批判したのはある意味で茶番でもあるが。なぜ本名を出したのか、批判する前になぜなのかわからなかった。現在黒崎夜話を読んでいる層は本名を知っているし、その意味で出そうが出すまいが意味がない。黒崎さんのスタイルとしても「ダサい」に分類されるような行為に相当するし、それこそ本人に負荷をかける以上の意味を為さない。それをやりたいなら茶番であっても私から批判するしかないが、未だにスタンスが判然としない。最新のエントリを読んでおぼろげながらわかる所もあったが。

一般に我々は狭いブログの世界の声だけで自足しがちだ。
「脱会者の社会復帰」と言えばその通りなのだが、一方で多くの被害者の社会復帰、もしくは生活そのものも想像しなければ総体としてバランスは取れないだろう。


ある特定の人物を「脱会者」の代表のように捉えるのは危険である。
(略)実社会で様々な齟齬に苦しみながら生活している元信者は大勢いることを忘れない方がいい。

http://kurosaki-yowa.seesaa.net/article/34346052.html

それはそうですが。


タントラ・ヴァジュラヤーナだか金剛乗だかよく知らないが、そういう“危険な教義”というのは、実行犯に選ばれた信徒の最後の良心を黙らせるための麻酔薬の役目でしかなかったのだろうと思っている。つまり宗教上の大目的ではなくて単に手段・方便であろうと。そう思って見ているから、その“危険な教義”のオウムの教義全体との整合性だとか、まして仏教全体における位置づけだとかいった議論にてんで興味が向かない。要するに詐欺師のする詐話の一つ、からくりの種じゃねえかと思えば、それまでだからだ。

http://d.hatena.ne.jp/yetanother/20070220/1171976777


まあそんなもんでしょうね。吉本隆明なんかは結局オウムへの自己投影を止められなかったかなあという気がする。自己投影ってのも突き詰めればもっと他のものかなとも思ったけれど。


追記
とりあえずこの件について書く事は、黒崎さんに対しての前のエントリでいったんやめたと書いたつもり。