オウムと政治、公共に関する認識の齟齬

なんか黒崎さんとこが凄いことになっているが。


私も松永さんのWikipedia編集の様子を見て、苦いものを感じた。致命的だなと思った。差別メソッドと同和を持ち出されたとき(1/24コメ欄)も「ああ」と思ったけれど。これも印象操作だとか何とか言い返されるんだろう、私に言い返しても意味などないのに。これを佐々木さんや小飼さん、安曇さん、Aaさん、R30さん達が見たらどう思うのか。今回の編集のようなことは普通の脱会者はやらない。


自分の首を絞めるからやめろと言っても、いつも松永さんや周囲の人は聞き入れない。作為をやればその姿こそを人は見ているんだと、どうしてもわからない。
BBさんのココログでの上の記事は私から見ても親切すぎると思った(この場合作為は関係ない)。どうせ忠告したって聞かない。


市民社会の正義を幻想というのは究極的にはわかる。松永さんは理解してないと思っているだろうけれど、発想としては理解している。わかるのだけれども。



私は今回の会見は意味を為さないだろうと思っているし、その為に根本的に問題意識、前提が噛み合っていない事を可視にしたかった。野田氏が記事を書いた意図など関係ないし、記事の主な部分、つまりアーレフ信者である事を隠した人間が政治懇談会に出席した、ということは真実でしかなかった。問題となったのはオウムと政治の接点。必要とされたのはそこへの客観的かつ淡々とした説明。入院前、脱会に松永さん本人の証言しかなかった事も災いした。第三者に証言できる人がいれば状況は全然違ったのだけれど、本人の言をそのまま採用する事はできなかった。これはwikipediaが客観的に編集されなければならないという問題とつながっている。


ちゃかすようだけれど、「野田敬生V.S.松永英明 愛憎の歴史」なんていう視点は必要とされていない。未だに松永さんは政治懇談会に出席した事が問題だったと理解していないし、その為にBB個人の思い入れという視点でしか読み解けなかった。その為に状況は動きようがなかったし、事の終息はありえなかった。



私が今回やったのは当人に対しての問題の提示。マスに対してではない。会うのならなおさら、BB氏以外の誰かが松永さんに前提としての根本の齟齬を伝えなければいけなかったわけで、最初から話が通じるとは思っていない。齟齬を提示すればどちらにしろ松永さんは激昂するのは分かっていて、最初から衝突など回避できなかった。一部でいわれる「解決」は、事の筋を外している。確かに本来はもう簡単に終わるはずの事なのだけれど、なぜそれが終わらないかという理由と、横で起こっていくことの関係性を見ながら私はかなり鬱になった。eshekさんはいったい何を喋れと言うんだろう。黒崎さんの書いている事を読んで、未だにあなたはそんな事を言うのか。



http://b.hatena.ne.jp/entry/http://madammizushima.seesaa.net/article/23216655.html


これを見た時点で、松永さんがやはり全くことを理解していないなとわかって、あらためて状況は膠着するなと判断したのだけれど。確かに「オウム信者」擁護ではないけれども。あの時の論法は「それにつながる要素」を持っていたということ。


松永さんが接触を求めていたのは単純に「わけがわからなかった」からだし、認識がない以上絶対に求められている説明をマスに向けてはしないだろうと思っていた。確かにあのままでは膠着は絶対に解けなかった。それはなんと言おうとも、松永さん側の認識の問題なのだけれども。



だから結局根本の齟齬を前提にしないとどうにもならない。「問題を理解しない」という事実で実際にはもう多くが判断されてしまうのだけど。美也子さんのコメント関連の部分か、ここは。(http://d.hatena.ne.jp/Ereni/comment?date=20070202#c


Gripでのインタビューで泉さんすらまだオウムの要素を感じたと書いていたし、読んでいた人間の多くがあれで引いた。そういう事の繰り返しで事が無用に大きくなっていったのだけれど、松永さん本人はあのインタビューに問題は感じていないと思う。
なんかそれでもう今回の話し合いを想像して徒労感があるんだけれども。


無用な所でこじれたというのは確かだが。
松永さんを余計なところで苦しませたくないという声も、よくわかりはするのだけれど。(またこれも、無用の善意だとか悪くしか取られないわけで 嘆息)