「どうあるべきか」

という事は大事だろうか。


これはある人のブログを読んでいて、その捉え方をまだいまいち掴みきれず感じることなのだけれど、ここで問題にするのはもう少し別の事になる。



「自分にとってどうあるか」。物事がすべて己に意味のある作用をするものでなければならないのか。
その捉え方は常人から見れば、世界に対する子供じみた理解であり、執着でもある。
人はある時点まで来れば、自分の存在が重要などでない事を悟る。そこまで行き着かなければ生きた事にもならないだろうが、その集団は無意識に「その地点」への果てしない距離を作り出す軸を持っていたかとも思う。


「自分が意味ある人間である」としたい意識は、早々完全に捨てきれるものではないが、無自覚に、強く持っていた場合災いを呼ぶ。今回、この傾向はいろいろな所で見えていた。オウムが道を間違えた事にこの意識が働いていたのかは知らないが、今オウムから意識が抜けつつある人間を見ていて、共通してこの要素を感じた。
それは依存であるとか、自己実現であるとかいうことにもつながるのだろうが。



つまりアーレフの在家信徒の方のブログを読んでいて、やはり内心の決着は難しいのだと改めて思ったのだが。
常人ならば、真実を知れば(自分がいた集団が)「殺してしまった」ことがまず突き刺さる。そこへの感覚的な距離の存在が「異常」なのだけれど、その人は頭の中で、論理として決着をつけようとしていた。それは本質的な「宗教的行為」ではないが、本人の仲では宗教的と定義される。(ここで言及しているのは松永氏の事ではない)


一方で真摯な状況の突き詰めの姿勢と、その稚拙で(過程でしかなく、自覚されているとはいえ)手前勝手な理解の並存が、「普通の人間」には奇妙なものに見える。
その「真理の追究」の姿勢に、現実の追求されるべきものの不在、狂いを感じるものではある。



その「追究」への欲求に近いものは自分の中にもあって、それはオウムに入りうる危うさであるのかなと思ったりもしたが、やはりオウムの感覚を外から見ていると絶対的に受け付けないものがある。
下記の中沢新一氏の手紙を読んで、理解しうるものはある。理解というか、この手紙を読んで私が感じる事は、全ては言うべきものではないだろうとも思う。
私自身が、社会の常識というものに苦しめられざるを得ない存在でしかなかった事。そして社会から逸脱する自分自身が、いかに危険であるかを私は自覚している。人の持つ本質は自ずからそういう危険そのものであり、その危険さもまた、人との関わりのなかで何かに変換するのかとも感じるのだが。
彼らを見ていて、その危険さの感覚の欠落を感じる。一人にならざるを得ない必然を彼らが失ってしまったのは(失ったという理解は全面的に好意的に解釈する前提によるが)、その危うさの感覚を何か別のもので置き換えてしまったことには因るのだろう。



『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記 - 中沢新一氏の手紙−転載1
『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記 - 中沢新一氏の手紙−転載2




脱会への理解は私の許容を超えるけれども、ここで言う事を躊躇わざるを得ない事が幾つかある。
例えば普通の人間がオウムについて言及するならば、ある線を越えるという明確な意識が必要になる。これまで現れてきた厄介は、ある意味予想されたものでしかなかったと言っていい。ひどく馬鹿げた形ではあったが。


オウムへの危険の感覚が存在するか否かである。今回の一連の出来事を見ていて、そのオウムへの違和感を感じるアンテナが壊れている人々がいた。その事が指すのはある危険である。見飽きたものではあるが、厄介極まるものだ。



例えば黒崎氏の書いていることは当人にとっていやがらせとしか感じられないのだろうが、黒崎氏も明確に線を渡っている。これがどんな事であるのか。私の目から見てもその言にやや邪推として感じられる所があるのも事実だが、今回社会から見た構造を明らかにしていく事は、今のネットの状況を見れば必要と言わざるをえない。
無言の前提、ガードとして機能するはずの危険の感覚が失われている事が、一体どれだけのことであるか。




話をやや戻すが、ルサンチマンという視点で物事を全て読み解く事はできない。
自分の存在が重要でないと知ったならば、そんなものはほぼ無意味になるからだ。これは「大人になればわかる」というものではあるし、たとえば左翼が無惨に歳をとっていくのは、彼らが人生に向き合う事をしなかったからである。彼らは大人にならず、何の責任も取らずに死んでいく。


先鋭であることに酔う事は快感ではあるのだろうけれど、それは往々にして他者への根本の依存を前提としている。結果先鋭となることと、先鋭となる(である)事が意識されてしまうこととの間には、根本的な断絶がある。


「大人はわかってくれない」という理屈は二十歳そこそこまでしか通用しない。
自分を被害者とできるのは、全ての責をまず相手に(世界に)押し付けているからである。



社会がどんなものであるかといえば、誰にとっても決して優しくはなかったのだし、そこで絶望が現れる。
絶望から逃れる術はない。


そこから眺める世界は奇妙であるだろうか。




では自分をここに括りつけている愛は何だろうかと考える。その愛をなくしてしまったら、自分が二度と変わる物を得られないかもしれない現実がそこに存在するからだ。
そこで私は生きられるのか?
生きる事と愛はやはり一体であると私は思う。


孤独というものが現実になれば、人は生きられないのではないだろうか。
そしてまた突き詰めると、誰しも孤独に突き当たるものではあるのだけれど。                                                             



一部加筆修正しました。