売れない芸者


スクリーンの向こうから、女優の顔が見返している。


今の時代なら、美しいと言うにはややしまりのない顔かもしれない。

見苦しくはないが、美しくはない下着姿で部屋をうろつく。




美しいが売れない芸者。



この女優は、本来芸妓になるはずだった。確か清元の名取でもある。監督の姉もまた芸妓であり、監督自身やとなに背中を斬られる厄介を起こした事がある。




芸者というのは女の職業だなと思う。
自分の存在そのものが品物である事は、今の売春の感覚とも違う。「それ」に耐えられるのは女だからであり、尊厳など生きるに必要なものではない。見返って、自分自身もそういう生き物だなと感じる。


売春防止法なんかで人権に目覚めた女郎がいたのだろうが、それは実に「正しい」事である。この辺は新派の「太夫さん」なんかがわかりやすい。二代目水谷八重子が頭のてっぺんから出るような声で演じているのを、以前テレビで見たことがある。



映画の中で、主役の芸者が呉服屋の旦那を引っ掛けるシーンがあった。実に見事な口説きぶりだったが、これはやる気さえあれば女なら誰でもできるなと笑ってしまった。

誰でも売春婦になれるというのは、つまり正しく生活の問題である。




昔の芸者を女子アナと比較して怒る人間はいないだろうが、保険の外交員と比べたらあまり洒落にはされないのだろう。日本の保険会社は彼女たちにおんぶに抱っこでやってきたのだが、とてもわかりやすく言うと、要するに彼らは彼女たちに人権を見ていなかった。彼女たちが耐えられたのは女だからで、その状況に甘んじなければいけなかったのは女だったからだ。
「私」的な生活の立て方の上で、それを内に抱え込む事で社会は正しく存在していた。それがつまり日本の現代である。



認めろよ馬鹿野郎、と思う。踏みにじっていた事と、見下し続けた事そのもので存在していたことを認めろよ、と思う。誰が誰を差別しないでいられるものか。


生きるのに何の大義名分がいるのだろうか。
蔑まれて生きるのが何程のことか。




十九の女優が、向こうから見返している。



高い天井のライトを眺める。
今日は最後まで見ることができたと、私はそっと確認する。