社会は「振りかざす」ものではない

社会というとなぜ振りかざしたということになるんだろうな。

社会っつーのは個人個人の集合体でしょ。他んとこでも書いたけど、責任が重石として要要の位置にあるというか、有機的につながっている。社会意識ってなんだろうなと少し考えたりもしたけど。これは少し最初のエントリに書いたなあ。
オウムというのはその社会の重力から奇妙に解き放たれた在り方をしてる。出家とかはまあ元々社会外に在るものだけど、・・・社会とオウムの事を書くとあっという間に核心に行ってしまうんだよな。



当時病気だったということは不幸な偶然だったけれど、だからそれをこちらが結果として理不尽として働いてしまったよねと書いても、それは目に入ってない。
社会の中のオウムというものがどんなものであるのか、それはオウムの中にいた人は分からないだろうけど、それを待つ事が社会に脱会者を受け入れるということでもある。下手に指摘すると対立的になってしまう。追いつめる事にもなりかねない。これは苦しい。


社会の側は意識が収斂されるのを待つしかない。重力に慣れるように作用していくしかない。そんで返ってくるのは罵倒と周辺からの嫌がらせ。「関係ない」という言葉。
私はともかく、BB氏に対してはね。その「関係ない」という言葉は、重力の働いてない中空から発せられているし、その重力のなさがこちらにオウムを見せつける。


だからBBさんは会う方がいいと思うのはそこらへん。作用するのにネットだけでやっても仕方がない。ただ、そうすると負荷かかりすぎというか、それこそ相手の人生背負うわけに行かないでしょうという。黒崎さんはここをわかっている。だからヒールを演じてる。



どうだろなあ。ほのめかしメソッド使うしかないよね、どうしても。明確に言ったら状況どうにもならないでしょというのがある。でもああいうのを見て真に受ける人もいるからきちんと身も守らなきゃいけない。
で、社会をの側から振りかざすなと言われてもね。私は必ずしも社会の内に存在できてるわけじゃない。社会の重力に助けられて生きてる感覚はあるけどね。そう、だから私は社会に「いさせてもらってる」という感覚。子供の頃から、失ってしまう恐れみたいなのが意識の裏っ側にいつもついて回ってた。これはまた別の病理だけど。大人になってからこういう感覚が出てくるのは、世間の現実を知るということなんだろうけどね。


最初の頃いろんな人たちが出てきたけど、私からみりゃその社会参加のチケットを当然のように持っている人たちなわけで、それぞれ社会からの疎外意識はあるんだろうし、それに故はあるんだろうけどさ。みな感性の鋭い人だったからなんとなくその感覚はわかるんだけど、私にもその感覚はあるんだけど。社会に存在してるくせにその力学を否定してみせるっていうのは、擬似だよね。だからオウムみたいなものに潜在的にシンパシーとか憧れとかがあったりするんだろうけど。
力学を身体で感じてその中に生きながら、それをもうひとつの目で見つめている。そういうのが大人のあり方じゃないのか。そう、黒崎さんはそれをずっと書いてる。だからまあシンパシーみたいのはあるんだろうな、黒崎さんには。根本的に。



社会の力学は自分にとって必ずしも優しいわけじゃない。そこから酷い切られ方をする可能性はいつでもある。なおさら自分の「責任」を投げ捨てて重力から離れてしまえば、戻るのは容易な事じゃない。ここで辛いからと言って他人を非難してもそれは違う。社会を代弁する人間が俺を追いつめるというのはまるで違う。その力学のある世界に戻ろうと意識を自分自身でしっかり持ち直さなければ、力学は自分を生かすように正常に働いてくれないというだけ。そこでその力学に寄り添えず、うまく生きられなくなったとしてもそれは自業自得でしかない。
結局だから他人は誰もそんなもの助けちゃくれないし、助けられない。自分の力学を保つだけで精一杯だから。まあ、知ってるけどね、そういう他人がどういう風に気紛れに無意識に、はじき出された人間に残酷に作用するかは。



本当に理不尽に働く社会の圧力というのもあるけど、自分自身の意識は常にそこ(社会)と不可分じゃない。だから私は被害者とか思わないなあ。どうしようもない事だと思う。もちろん社会で正常に生きられるならラッキー。重力に抗しながら、寄り添いながら、つぶされながら生きてくもんだと思う。
どこまで書いていいか分からない。しんどい。


当時出てきたいろんな人たちを見てて、自分の欠落を簡単に他人は捨てる振りができるんだなあと思った。捨てられやしない癖に。その中で生きてるくせに。で、こっちを社会の圧力として非難するわけでしょ。どういう倒錯だよっていう。すげえ残酷だなと思った。持てる者の無神経。