「大学は出たけれど」


奨学金を自己責任の問題にすると日本が滅ぶ - 技術教師ブログ



ブクマ(参照)も見てちょっと気になったんだけど、貸与奨学金の返済はアメリカでも問題になっている(奨学金ローンの重し―結婚、子どもも先送りする米若者事情 - WSJ日本版。既にリンク切れの為ブックマークをリンク。タイトルで検索すると転載記事が出てきます)。


内容を抜き出すと、米奨学金の問題の多くは、つまるところ参入している民間業者にあって、そのローン金利はバラバラであるうえに上限がなく、支払い猶予などの柔軟性も民間には要求されない等。
政府系、民間系に共通する問題としては、『借り手がデフォルト(債務不履行)に陥ったとしても、集金代行業者は一生追いかけ回すことができるのだ。他のローンと違い、時効がないからだ。また他のローンは自己破産で取り消されるものの、奨学金ローンはそうではない』という事のようで(日本では自己破産すれば、奨学金返済も免責対象になります)。



以前ドキュメンタリーなども見ましたが、アメリカで就職に失敗した高学歴者の奨学金問題は現状、かなりえぐいです。

既に知らない層も多いのでしょうが、以前日本では十分な収入があっても奨学金の返済をほっぽらかす人が多く(数年前の時点で新聞記事になっていた記憶がありますが)、そのことが奨学金の存続そのものを危うくしている、というのが数年前までの最大の論点でした。要は経済の行き詰まりがその焦点を変えてしまったわけです。

今と似た状況としては、昭和初期に大卒者の就職率が30%代という不況期がありました。そして国によっては現在、この「過剰学歴」イコール『実際の求人と学歴のミスマッチ』が問題になりつつあるのですが。


世界恐慌の煽りを食らったこの頃の世相に関しては、1929年に小津安二郎が「大学は出たけれど」として映画を撮っています。このタイトルは流行語にもなったので、耳にした事のある人も多いだろうと思いますが。
映画の完全版は既に存在しませんが、短縮版がネット上にあったので下に貼っておきます(この記事を書いた動機は、実はこの映像リンクを貼りたかったという事に尽きるのですが)監督デビュー三年目に撮られた作品で、さほど出来がいいとは言えない映画ではありますが。



主人公の男が、就職できていないのを郷里の母親にも婚約者にも言い出せないというあたりは、見ていて身につまされる向きもあるかもしれません。今の世代からは、ラストが全く共感を呼ばなさそうですが。









<追記>
次項に参考リンク(参照)から引用。