OhMyNewsとデジャ研の話

やっとちょっと復活。


倫敦橋さんのところの記事が圧巻。
オーマイニュースは古い」という言葉は、そのままであろうなと思う。私が付け加えるものは何もないなと思うが。


London bridge 分裂の予感



佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (上)
佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (下)



佐々木氏に批判されているように、既に日本のネットにおいては無効化されたやり方で、日本版OhMyNewsは進んでいきたいように見える。ネットのことをわかっていない人たちが、低レベルな「市民の声」メディアをつくっていこうとしているというのがおおよその姿であろう。



ただ、JR東日本労組・道警の記事あたりはやや違う姿が見えた。コメントの方が圧倒的に面白かったのが悲しさだが。数から言って2ちゃんで吊るし上げられていたのだろうが、目新しさはなく偏った姿勢によるものにしろ、追記 あとで見ると、道警の方はもっときちんとした記事があった)このあたりはジャーナリズムの要素は見える。沖縄の基地問題等も、イデオロギーありきでなければ、と思うが、イデオロギーあるからやるのだろう。どちらにしろ、どれも主軸になり得ないニッチな話題ではある。


追加リンク 佐々木氏言及の中台記者について
真夜中は別の人 - 中台達也記者を弁護する


そしてOhMyNewsは現実、これではまずもって需要がない。存在意義もない。
JANJANの国際面は一時期チェックしていたが、偏りはあれ既存メディアがフォローしない部分を記事にしている。最大の問題は、OhMyNewsはその事実の報道部分を担おうという気概があまり見られない点である。


私でも政治ブログをやる上では、日本の既存メディアで入手しにくい情報・論点をとりあげるようにしていた。国際社会を眺める場合、英語環境と日本語環境では絶望的なまでに情報差がある。今更社会面や声欄の再生産など、誰も求めていないのだ。報道を見る人間が欲しているのは、ただ情報である。



この問題点はネット上のジャーナリズム論にも見られるが、既存のメディアで得られる情報などネットで情報を得ようとする人間は求めていないという、当たり前の認識がない。また記者募集というが、ネットを見ていてそれなりの見識があり文章を書け、何か言わなくてはと思っている人間の多くは既にブログを書いている。2ちゃんを見ても、真偽取り混ぜてメディアに出ていない情報が幾らでも転がっている。



拉致問題の取り上げ方ひとつとっても、突っ込めば国際政治的にもかなり深い話になるが、舞台紹介をサンプル記事にというのでは、期待されている形がおおよそ見える。


27日、家族会と救う会北京を訪問するが、そういった取上げ方はおそらく求められないだろう。要人に会うわけではないが、これで中国での一歩ということではある。アメリカでの地道な家族会の活動と成果を思えば、あの体制下と言え、無視できる動きではない。
このところ拉致問題をきちんと追っていないが、タイに関する事等、他民間レベルでも外交的な地道な動きがある。例えばこういった動きをフォローして行く事を一部の拉致関係ブログがやっているが、これはまさに報道である。



拉致周りに政治的偏りがあるのは指摘される所だが、これらブログ等のあり方を、報道の一形態としてきちんと把握してもらいたいと思う。ここで出される情報を流れとして捉え、整理して、大きな所で伝えていく事が、ネットという場所に合った、ひとつの意義ある報道足り得ると思うからだ。
拉致問題を取り上げたのはサンプルでしかないが、ネットジャーナリズムを議論する時、こういった既に出来上がっている報道形態への視線がない。利用しようとする姿勢もない。既存のものと連携しようとせず、あくまで低レベルの独自色を打ち出そうとするのは、愚かなやり方でしかないと思う。


その背景には、日本のマスメディアの記者教育の問題があるようにも思える。オーマイニュース編集部に集まってきているスタッフの多くは、新聞社やテレビ局などで仕事をしてきた人たちだ。彼らは記者としての教育を徹底して受けてきていて、「新聞らしい原稿」「テレビらしい原稿」を書くことに慣れきっている。その「らしい原稿」とはどういうものかといえば、「日本は豊かだけれど、大事な心を置き忘れてしまっている」「マネーゲームに狂奔するヒルズ族」「反戦平和を胸に誓った」といったようなステレオタイプの表現で書かれた原稿だ。こういう原稿を書くのが新聞だとみんな思っているから、無意識のうちに漫然と原稿を書くと、いつしか記事はどんどん左寄りになってしまうのである。オーマイニュース編集局には、この「無意識の左曲がり」が蔓延しているのではないかと思う。


佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (上)


佐々木氏はかなり抑えた言い方をされているが、現実にはこのレベルの偏りではないだろう。
佐々木氏は過去の泉氏へのインタビューの中で、現実的な突っ込んだ質問をされていた。報道機関のあり方について、きちんとした意見をもっておられる方とはわかる。



倫敦橋氏は、デジタル・ジャーナリズム研究会とOhMyNewsの関連に言及しているが、佐々木氏や藤代氏の記事を見る限り、明らかにデジャ研が正論である(注:追加リンクを参照)。なぜ佐々木氏がこれだけ問題点がわかっていてオーマイに加わるのかはわからない。ここから組織を変えようとするのは現実には無理と思える。倫敦橋氏の指摘どおり、主導権争いの様相を呈しているのだと思うが、鳥越氏は外せない、またもとのコンセプトに問題がある限り、そもそも佐々木氏らはOhMyNewsの体質と相容れないものだと思う。

実のところ、客観報道に一見見えながらも実は強烈に主観を打ち出すようなこうした書き方は、新聞のナンパ(社会面に掲載されるようなサイド記事)の王道で、正直に打ち明ければ私も新聞記者時代に飽きるほど書いた。しかしこうした記事は、フラットな土俵の中で読み手と書き手が相対化されるインターネットの時代においては、もう成り立たないと思う。


もちろんことのは問題があった以上、佐々木氏の言論を冷めた目で見てしまうものではあるが、あの時佐々木氏が記者時代の手癖で記事を書いているなというのはよく見えた。氏は思想の偏った方ではないし、批判をしながらも、これほどの激烈な批判に合うほど、偏った方ではないだろうなと思っていた。だからこそ、実は私の精神的疲労も激しかったわけだが。


フラットな言論空間といいながら、ことのはの件で都合三回も批判に答えず、手癖で記事を書かれたことは、氏の言葉を裏切っている。
佐々木氏は、実際にはまだまだメディアの発想の抜けない方だし、未だマスコミを一段上の物と見ておられる。今回、実名匿名論で歌田氏と全く違う意見を持たれているのもわかったが、ならばわざわざご自分で圏域などといわれる事はなかった。


しかしここで佐々木氏がきちんと批判をされ行動されるのは、まさに火中の栗を拾う行為であると思う。そこはきちんと評価されるべきものであるだろう。




翻るが、現実あそこまでの批判をした事は過去一度もない。これは本人が一番よくわかっているのだが、本来はあのような形の激烈な批判は書かれるべきでもない。ブロゴスフィアの動きから推して、彼らの言論を徹底的に潰しておく必要を感じて、あえてやったというのが正しい。公的なものに私的な解釈や立場が無意識に混ざりこんでいた場合、徹底してやらないと実効性を持たないからだ。


一連のエントリは、私個人の立場を一切棄却して書いたが、あの批判を私個人に別の形で適用されるなら、対処の仕様がない。それだけ逃げ道のない「絶対の立場」からの批判になっている。
平たく言えば、あの言論は「反則」である。批判され得る自分の立場というものがある限り、あんなものを書く資格のある人間などどこにもいない。しかしそのことを直接批判した人間は、結局一人しかいなかった。



藤代氏はカルトに言及しているが、彼は松永氏の騒ぎを知っている。それならばなぜ、報道機関にまつわる部分を明らかにせよといわなかったのか。これはもちろん佐々木氏も同じである。彼らはことのはの問題の決着をつけなければ、どうしても言動不一致になってしまう。今更だが、やはり言及しないわけにも行くまい。




現実、私もことのは問題に関わりを持って、流れの中で、幾つかの事象に偏りのある姿勢を取ることになってしまった。大分言論としては信用を失っただろう。こんな事を言ったら、またpsycho78に笑われそうだが。
ブロゴスフィアを抜ける前に、もういっぺん多少まともな所をやっておくべきか、とは思う。