時間

つらつらと考える。
障害を持って生まれたに近いのだろうなと今は考えている。とすれば、生まれたときからこうなる事は決まっていたわけで、実際にこのような変遷を辿る人間というのは少なくもないわけだ。


私とよく似た体の傾向を持った小学生の女の子がいると聞いたが、結局その子も私と似た経緯を送る事になるだろう。


その子は自分から恐れに囚われに行くだろうか。そんなものでもない。ただぐずぐずと自分が駄目になっていく時を過ごしていき、またそれを自ら見つめていかねばならないだけのことだ。選択の余地はない。苦しみが自分の中で荒れ狂っても、時にはそのせいで叫びだすのだとしても、「それ」は解消されず、じくじくと限界を超えて己を苦しめ続ける。周囲の事など何も感じ取れなくなる程に、己の身を損なっていく。



体の苦しみは自分を苦しめるけれど、苦しみの感情は一時からだの苦しみから解き放ち、しかし結局自分を追いつめる。それに気がついたのは、つい一昨日の事だ。
「適当にやっていれば道は開ける」というのが正しい行き方でも、それが不可能な人間もいるのだ。そしてそのことがどんな事を意味するのか、そうでない人間には決して分からない。



人の心に触れることもなく、誰か違う人間と交わる事もなく、この大きな欠損は決してもう埋められる事はないのだろうが、ただ自分がここにあるということが限りなく負担になる。誰に見て取られる事もないこの苦しみが、最後には意識すら奪い去っていく。



わかっているのは、体から力が失われていっている事であり、それがある線を越えれば何が起こるか分からないことを、私自身は知っている。力がなければ心すら体の中には留めてはおけないし、時は過ぎるまま私の中から力を奪っていく。
何もかもわかっていながら、このままいなければならなかった事は私に一時的な混乱を引き起こしたが、それも予定調和の混乱に過ぎなかった。馬鹿げた自分の姿を見つめていながら、結局のところ自分の中に変化など起きなかった。ただ取り返しのつかないことを私は幾つかしたかもしれないし、その取り返しのつかないことなど本当は瑣末な事に過ぎない。



ずいぶんと時を無駄にしたが、無駄にするほどのものなど本来何もありはしなかった。
時があまりに長すぎて、その事が私から全てを奪ってしまった。そしてそれが最初から全て決まっていた道筋でしかなかった事は、本当は最初から知っていた事だ。



苦しみなどどんなものか問われてもわからない。
その事が尚更私という人間を追いつめてきたのだが、わからないものはわからない。