世界


理解されない事はわかってる。
ずっと、子供であっても人と違うところで生きねばならなかったから。


でも、私から見ればひどくくだらない事で、あまりにも馬鹿げた誤解で、私を馬鹿にしたつもりでいる人達を見ると、
彼らはいい大人であって、私をある程度知っていて、それでも私を卑怯者とか、弱い人間だとか思うんだと。



綺麗なことを言っていても、世界は嘘だらけだ。
でも、そうである事を他人に忠告はできない。
あなたはなんてひどい、偏見まみれの、耐え難いような人間なのねと相手はこちらに矢を向けるから。
それを相手が真実だと理解したところで、その頃には全てがもう遅い。
そして彼らは私の為に間違いを認めようとなんて、しはしないんだし。



ずっと、同じ理由で私は世界の外にいて。
ここでずっと書いていた事だけれど、苦しみを形にしていく事は誰かに読まれる為ではないし、でも、その理由すら、誰かの怠惰にとって都合よく、弱さと解釈されていく。


誰かに都合の良い理解というのは、誰かに理不尽であるという事だ、必ず。
個人個人の事であっても、もっと大きな、世界の事であっても。



何かを理解しようとする。
対立するものを、自分を否定してくるものを。常に自分を囲む怠惰さを、私は肯定できないから。
正反対のように見えて、それらは矛盾の無いものだといずれ見えてくる。その枠ができたストーリーまでもそのうち見えてくるものだ。


けれど、気づくと、自分自身がその誤解の構造の中に押し込められている。
自分がほぐしたはずの糸は、他人にとっては依然己を抱え込む為の道具でしかないからだ。


人と違うものが見えていれば、様々な人達から誤解されるようになる。
傲慢に見えてもそういう事だ。


人が社会と対峙する時、己に抱え込める誤解というのはそう多くない。
集団から対象と見られてしまえば、そこに困難が生まれてしまう。



「あなたは愚かだ」と何度言われてきただろう。
私が愚かであっても、愚かでなかったとしても、その事は結局、あなたにはどうでもいい事ではなかったか。


自分の中の疑念を確かめていくたびに、私は余計なものになっている。
そんな事どうでもいいけれど、それでも、私が世界のどこにいるのか、そのたび見えてしまうから。