時代と意識

戦後10数年を経た頃のそれだと説明すれば分かって貰えるだろうか。

http://kurosaki-yowa.seesaa.net/article/26800859.html


一方で戦前の時代劇スター達が陳腐なものになっていたわけですね。阪妻の「雄呂血」なんか見ると、自意識の奔流とでも言うような、あれがあの時の圧倒的な新しさで、この辺はまさに時代意識の移り変わりなんでしょう。
当時の時代劇映画の殺陣は強烈で、大河内傳次郎なんかもそうだけれど、血が燃え上がるようなとんでもない爆発力を持っている。時代劇といって今イメージするルーティーン化されたものとは違って、当時の大衆文化の中での圧倒的な新しさ。いわゆる傾向映画も多いから、外国からの流れの影響も大きい。


裕次郎の象徴するものは、戦後からやっと抜け出したという事でもあり、その屈折というか内向きさにはやはり時代の違いがある。自分に酔う感じ、陳腐さもまた前の時代までとは微妙に違う。まあざくっと言い過ぎで、黒崎さんの言いたい所はこういう感じではないんでしょうが。



私は戦後的なものが嫌いで、子供の頃にいた年寄りの感覚の影響がなぜかデフォルトにある。つまり戦前生まれ、更に言えば「正」の感覚ではなく「野」にあるもの。だから映画ひとつでもいきなり戦前にいってしまったりするのだろうけれど、小津、成瀬も戦後盛んに撮った監督ではあれ、当時の流行的な感性とは相容れない世界を持っている。



話を戻すと、舞台だったら新国劇澤田正二郎。以前のブログの名にした映画の原作が、新国劇の戯曲「殺陣師段平」なのだが、殺陣師の段平が澤田の意図に苦闘しながら新国劇の為に新しい殺陣を作り上げるという話。段平は時代遅れと笑い者になりながら、それでも驚異的な執念を見せて「新しい時代の殺陣」を完成させるのだが、惚れた女房に苦労をかけすぎたせいで死なせ、あげく自分も中風で死んでしまう(ブログタイトルにした映画の中では)。これには実際のモデルがおり、新国劇の草創をそのまま出し物にしたともいえる。
http://www.bekkoame.ne.jp/i/django/daiei/danpei.htm



「殺陣師段平」のそもそもの舞台では、後の新国劇のスター、島田正吾辰巳柳太郎によって初演されているが、剣劇スター大河内傳次郎も第二新国劇の出身であり、その舞台を見た伊東大輔に見出されている。この辺、だから当時の舞台と映画の関係がやっぱりある。戦後しばらく時代劇スターは剣戟の舞台で回って食っていたりするのだが、剣戟というのでなく旅回りの劇団に関しては、「浮草」初め小津や成瀬が何度かうまく映画化している。新国劇と旧来の場末の劇団を一緒にしていいかどうかはともかく、この辺ちゃんと調べれば近代史という側面でもいろいろなものが読み解けるのだろう。




さすがに新国劇といってもよく知らないんだけれども、晩年テレビで島田正吾を何も知らないで目にして衝撃を受けた。千恵蔵もそうだったけれど、もうあれ以降の世代では、いくら歳をとってもあの感じは出ない。これは役者に限った話ではなくて、「これからの年寄は戦後生まれ」という文章をちょっと前目にしたが、そういうことではあるのだろう。


知り合いの年寄りが死んだ時は、ついに来たかと思った。
まあしょうがない、ということではあるんだろうけども。