疲れとその場所

ここ数年、夏の終わりになると不安定になる。暑さが失われる様が、自分の失ったそれに重なるからだ。
人生は十代の頃に一度断ち切られていて、その頃の夢を繰り返し見る。取り返しのつかないことは当時から今まで一本の線でつながっていて、この人生は怠惰であり、そして傷そのものであり続けた。その不安定さを私はごまかし続けたが、最初から見せ掛けの選択の余地すらどこにもなかったのだ。ずっと前の時代の老人のように、はじめから全てを諦めていた。
それほどに私には今という時代が見えない。世界は雑音だらけであって、誰かの意志は私の目の前を何重にも塞ぐ雑音にすぎなかった。今でもそうである。私は自分の中にありもしない意志を見ようとしている。そうでなければここでは生きていけないからだ。


周りの友人も大人たちも誰一人私の置かれている状況を理解できなかったし、彼らは私のことを気弱でわがままな娘だと思っていた。私は彼らの好きなようにさせていたし、いちいち相手にしたからといって、私の人生の何が変わるわけでもなかったのだ。
唐突に向けられる敵意と、弱さを突き落とそうとする力。私は弱い人間ではなく、彼らはもう少しずつ残酷だった。その残酷さがどんなものか、そしてそれが世界の必然の働きでしかないことを私は見ていた。自分自身の存在が誰にとって都合が悪いのか、そして彼らが私を追い込んでいく無意識と所作を、集団の磁場をここから見続けていた。自分が誰にとってどんな恐れであるのかは、ずいぶんと早い頃から知っていた。


一番は無関心であって、力を持たないのなら打ち棄てられた子猫のように一人で死んでいく。誰かにむかって自分や他者への理不尽を糾弾できるのならば、彼は決して孤独ではない。少なくともその人はそう在ることを知らない。



疲れているなら眠ることができない。ようするに世界と私を分けるのは、それである。