私が説明ききたいんじゃなくて、

仮に野田氏の記事前に脱会の意思を他人に伝えていたんなら、脱会の信憑性は全然違うから、説明してみたらいいんじゃないかというだけの話だった。



「お願いできますか」というのは確かに自分でもどうかとは思った。

痴漢冤罪ねえ

http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/09/post_3a20.html


昔確か早坂暁がなぜか痴漢冤罪の会の支援をやっていて、そこの会長、つまり自称冤罪被害者がまた痴漢事件起こして冤罪でもなんでもなかったという落ちがついた事があった。


一時、六時代のニュースで冤罪の特集を頻繁にやってた事があったけど、満員電車の中でどれだけ痴漢が多いか、女子高生に聞いてみたらわかりやすい。ほんと絶望的なほど多い。女子高の先生は行事の時はほんと大変らしい。しかも極力生徒にはそれを黙っている気配り。
「なーにが冤罪だよ」と。泣き寝入りしてる少女たちはその千倍いるっての。



実際には気持ち悪いだけで、たいした害はないけどね。
制服ってああいう人たちは好きなんだろう。



ああ、気持ち悪い話題。

人を追いつめる事

あんたは人を心配しすぎるとよく注意される。引きずられているよと。で、大概その心配は私の勝手な思い込みなわけで、向こうには大きなお世話。


今まで死ぬほど傷つけた人が何人かいるが、そんな時第三者からは私の方が心配に見えたりするらしい。一回自分の体がボロボロの時、そんな状況になった事があって、近しい人に「あんたが死ぬんじゃないかと思った」と言われた。



傷つける事になった人たちの果さなかった責任を結局私が引っかぶる事になったのだが(彼らが現実を直視しなかった事で喧嘩になった)、絶縁されてそのまんまなんてこともある。とにかく手段を選ばないから、めちゃくちゃひどい人間に映るらしい。つうかそういう時、めちゃくちゃやるからな、私は。



他人がズタズタになっているのを見ると、異常なほど影響を受ける。最近までこの傾向に気がつかなかったが、それでは身を滅ぼすよと何度かいわれた。


そうだろうなあ。

脱会は「私」の問題

公的な問題と混在してしまう部分がある。
追求がきつすぎて結果的に脱会を邪魔する事にならないか、というのがずっと気になっていた。


現実として脱会は生活の変化にもなるし、したくても踏んぎれない人たちもいる。今回当人には家族がいないし、今回のことが果して抱えきれる負担なのかと思っていた。今本人を見てたら平気そうで、私は逆に助け舟を出してもらう形になったが、確かに入院前の一時期は彼にとって過負荷だった。おそらく彼の友人たちが怒っているのは、彼をそこまで追いつめる資格が誰にあるのかという事で、病気が重なってしまったのは事故だが、そう思うのも当然だと思う。

私のような勘繰りをするものもいるのだから、とも思うのだろうし。



脱会者の社会の受け入れという視点で見ると、行きつ戻りつのグレーゾーンをどう受け入れていくかという事がある。この間まで信者だった人に、一気にオウムと社会の関係を理解してくれといっても、外からの視線には早々馴染まない。ここは役回り的に泉さんにフォローして欲しかったが、ああいうことになった。ここを考えると現実に落とし処はないのではないかと、考えが行き詰まった。


ということで、非常手段にでも出るしかないのではないかと思ったわけだが。
このブログでめちゃくちゃやっているのは、賭けのつもりであえて踏み込んでいたのだけど、元々ブログなんぞやめるつもりだったから、自分の立場はどうでもいいやと思ってやっていた。それにしても度が過ぎた。



この件でも政治がらみから見るのと、脱会から見るのとだと風景が違う。
脱会が証明されれば事はアーレフと切り離される。四女さんへの発言等の事で保留せざるをえない部分もあるが、完全に証明というのは現実には(脱会していても)不可能に近い。まあ私がここで考えていても意味がないが、現実のアプローチとしてどの切り口でも難しい。