脱会は「私」の問題

公的な問題と混在してしまう部分がある。
追求がきつすぎて結果的に脱会を邪魔する事にならないか、というのがずっと気になっていた。


現実として脱会は生活の変化にもなるし、したくても踏んぎれない人たちもいる。今回当人には家族がいないし、今回のことが果して抱えきれる負担なのかと思っていた。今本人を見てたら平気そうで、私は逆に助け舟を出してもらう形になったが、確かに入院前の一時期は彼にとって過負荷だった。おそらく彼の友人たちが怒っているのは、彼をそこまで追いつめる資格が誰にあるのかという事で、病気が重なってしまったのは事故だが、そう思うのも当然だと思う。

私のような勘繰りをするものもいるのだから、とも思うのだろうし。



脱会者の社会の受け入れという視点で見ると、行きつ戻りつのグレーゾーンをどう受け入れていくかという事がある。この間まで信者だった人に、一気にオウムと社会の関係を理解してくれといっても、外からの視線には早々馴染まない。ここは役回り的に泉さんにフォローして欲しかったが、ああいうことになった。ここを考えると現実に落とし処はないのではないかと、考えが行き詰まった。


ということで、非常手段にでも出るしかないのではないかと思ったわけだが。
このブログでめちゃくちゃやっているのは、賭けのつもりであえて踏み込んでいたのだけど、元々ブログなんぞやめるつもりだったから、自分の立場はどうでもいいやと思ってやっていた。それにしても度が過ぎた。



この件でも政治がらみから見るのと、脱会から見るのとだと風景が違う。
脱会が証明されれば事はアーレフと切り離される。四女さんへの発言等の事で保留せざるをえない部分もあるが、完全に証明というのは現実には(脱会していても)不可能に近い。まあ私がここで考えていても意味がないが、現実のアプローチとしてどの切り口でも難しい。