「われわれはどこへ行くのか」
久々にゲゲゲの女房はおもしろかったけれど、テレビ局(てか制作会社か)にもうドラマを作る能力は無くなってきたのだろうなあと思う。
韓国ドラマをそのままゴールデンに流してそんな話になっていたけれど、それ以前にヒッチコック劇場やコロンボのあのリメイクを楽しめる神経はわたしには理解できない。見てる人が多いので人前では間違っても言えないが、あんな子供だまし見るなんざくそったれだ。
以前これも書いた記憶があるが、日本でテレビドラマの初期は映画監督が撮ってる事が多いので、テレビドラマの制作能力の枯渇は、結局映画の貯金を使い切ってしまったということだろう。ハリウッドも今は他国の焼き直しが多い。
最近は映画そのものも脚本を書ける人材の枯渇があるようだし、原作になるような小説も昔のようにないようには見える。
テレビが映画を食ったのだとすれば、ネットは新聞も映像メディアもあらゆるものを食っている。どんどん作る手間は軽くなっていき、ブログは印刷物より気軽に書け、Twitterはなおさらだ。「物」より、流通そのものが目的として論じられている。随分と皆インテリになったものだ。
情報を提供する役回りだった新聞記者は、どんどん首になり食えなくなっている。そして彼らの役回りが陳腐化しているのも確かだ。
結局収斂していくスピードが加速度的に増しているだけで、自分の足を食いつくして気がついいたら何も無い、のかとも思う。
いわゆる実験的な短編映画やら写真やらを見て考えていたのは、これってそのツール自身の可能性を試しているんだなということだった。物理的にも、社会的な意味においても。当たり前のことなんだろうが、今まで私にはわからなかった。Googleなんか前衛そのもの、壮大な実験的世界に我々を巻き込んでいる。我々は間違っても西部劇の登場人物ではなく、むしろファクトリーかなんかの実験フィルムの一部(見たことはないが)なのかもしれない。
TwitterやTumblrで、小津の世界のリアリティーを切り取って、我々はどこへ行くのだろう。ATGの世界を叫んでいる人たちも相変わらずいるけれども。