乖離

結局麻原は、どうなっていたのだろうなと思う。
アメリカに対する被害妄想などありふれたキチガイのたわごとに過ぎないし、だがそんなことも、宗教性のすりかえも、あれあれと信じさせてしまった。


彼の裁判中の言動が奇矯であったことは確かだが、それをどう扱っていくかはしばらく裁判の当事者全てが戸惑っていたように見える。接見した人間の数は非常に限られているし、立場によって見方が違いすぎて本当の所どうなっていったのかは分からない。娘達が父の様子がおかしいのだと訴えた時、彼女達が教祖でなく「本当に」父を見ているのなら、そこだけ奇妙に問題の質が変るように見えて不思議にも思った。



「生身の麻原」に信者が用などなかったとすれば、彼らは最初から「生身の麻原」の権利も、「正しい裁判」も欲していなかったのかもしれない。それならば馬鹿な話だ。彼らはいつも自分が被害者と主張し、裁判を利用していた。教団はずっと社会的な存在でしかなく、それをずっと利用していたものを。



死刑確定までの経緯について、弁護士側だけを責めればすむものかといえば、無論そんなものではない。本当の所、私はこの裁判が正当に進んだとも思っていない。


少なくとも弁護士らは麻原の人権を守ろうとしただろうが、教団にはそんなものは不要なものだったのかもしれない。
だとしたら、とんだ茶番だ、と思う。