月影兵庫復活と、少し映画にまつわる話(1) 佐々木康編

ということで。


もうしばらく閉じておくつもりだったのだけれど、人さまのところでこれ以上ご迷惑をかけるわけにもいかないので、ひとつエントリを。



さてこのことについて書くには私は適任とはおよそ言い難いのだけれども、他に書く人間がいるようにはとても思えず多少書く事にする。ブログに親和性があるとはとてもいえない話題だが、面白い人には面白い話題ではあるだろう。(そして映画史に詳しい人には微苦笑ものの内容であるかもしれない)




今朝、というか既に昨日になってしまったが、月影兵庫復活という事で松方弘樹がテレビに出まくっていた。月影兵庫はもともと父親である時代劇スター近衛十四郎のテレビでの最大の当たり役だが、扮装をした姿はやはりギョッとするほど父親に似ていて、松方氏が紅顔の「美青年」であった頃の親子共演シーンを思い出さずにはいられなかった。


六十年代半ばの放送当時、脅威の視聴率を叩きだしたこの素浪人シリーズは、抱腹絶倒極めて質の高い娯楽時代劇である。
この作品にまつわっては幾つか書きたいと思う事がある。松方氏がなぜこれを今やろうとしたか、見ていてちょっと胸のつまる思いも抱いたのだが、まずこの月影兵庫シリーズを撮った佐々木康監督について少し書く。


                                                          • -


明治41年、佐々木康監督は東北の裕福な地主の家に十四人兄弟の九番目の子としてとして生まれている。
東北訛りのズーズー弁から清水宏に「ズー」とあだ名をつけられ、その後も「ズー先生、ズー先生」と呼ばれていたらしい。一度高峰三枝子によるインタビューを見た限りでも、なかなか愛嬌のある人物である(長くなるので割愛するが、その内容も非常に面白かった)。



戦後GHQの土地改革により佐々木家は財産を失うが、往時の邸内には蔵が並び幽馨園と名付けられた庭園には池や堀がめぐらされ、佐々木の言葉を借りれば「家の外に出なくても童謡『どんぐりころころ』の世界を堪能できた」程に広い家だったらしい。後年自分の映画の撮影にも自宅の蔵を使用しているが、作品の基調にある明るさ鷹揚さはその生まれに負うところが多いように思われる。


子供の頃から映画に傾倒し、法政大学在学中には松竹蒲田の大部屋女優を座談会に呼んで映画研究会の会費を作るというやり手ぶりを発揮。自分を使ってくれないかと松竹に働きかけ、清水宏の助監督にあっさり採用されている(追記 本人の記述では助監督とあったと思うが、正式採用ではないという話もある。清水の書生のような立場だったのは確実だが)。その裏には清水のあまりの横暴さに下に誰もいつかなかったという事情があったのだが、清水の元で田中絹代とのあれこれも目撃しつつしばらく助監を務めた後、小津組に移籍。当時の松竹蒲田所長城戸四郎(のち松竹社長)に気にいられて早々に監督昇進を果たし(追記 身分は助監督のまま、かなりの本数を監督している)、その後はメロドラマ・歌謡映画と娯楽作品を撮って撮って撮りまくった。



主題歌「りんごの唄」の大ヒットで知られる戦後第一号作品「そよかぜ」、キスシーン第一号映画として知られる「はたちの青春」は佐々木の監督作品であり(男の方の大坂志郎大岡越前で爺をやっていた人だよといっても、もうそれすら分からない人もいるのだろうが)、高峰三枝子を育てた監督としても知られる(フルムーンのキャンペーンを撮っていたのも佐々木監督だよと言っても、やはり分からない世代がいるのだろうな)。その後の東映時代を考え合わせても、もっとも日本映画史を体現している監督の一人であるという言い方もできるかもしれない。



この松竹時代、佐々木は一度「評価されるような」作品を撮ろうとしたが、城戸所長に「俺は小津のような芸術監督をもう一人作る為にお前に育てたわけではない」と一喝されている。城戸を巡っては成瀬にも似たようなエピソードがあるが(「小津は二人いらない」という城戸の有名な発言。確かに成瀬の作風は小津によく似たところがある)、佐々木は「それで目が覚め」その後はひたすら娯楽の王道を突っ走った。


松竹で活躍した後は、満州から帰国した大プロデューサー・マキノ光雄に誘われ東映に移籍。以降東映娯楽時代劇の担い手として第二の黄金期を謳歌することとなる。

私からすると、この人の作品は片岡千恵蔵美空ひばりの映画など知らぬ内に見ていたものがほとんどで、後で「あれもこれもこの人が撮っていたのか」と驚かされたクチなのだが、それだけテレビなどで放送されても佐々木康の名前はあまりクレジットされていた覚えがない(無論映画のタイトルには出るが)。そういう扱いの監督なのだといえば、読んでいる方にもおおよその見当がつくだろうか。



マキノ正博清水宏のように、大衆作品を取りながらも際立った才を示すという監督ではないが、人を楽しませるという点で、徹底した意識と図抜けた能力を持っている。いわゆるプログラムピクチャーの代表的な監督といえるが、脈絡もなくレビューを入れてみたりオールスター映画でスターに好き放題やらせたり、いわゆる大監督ではありえない、活気に満ちた映画の撮り方をする監督である。行き当たりばったりの撮り方は清水譲りという指摘もあるが、作品というだけでなく映画を興行と意識しながら撮る事のできた監督だったのだろうし、映画界そのものに活気を与え続けた存在でもあったのだろう。こういったプロフェッショナルがいなければ興行としての映画は成り立たないものだなと思う。実際、作品にあれだけのエネルギーを維持し、映画界に貢献し続けた事実は驚愕に値する。




話をやや戻して。
月影兵庫といわれてもピンとこない人がほとんどかもしれないが、テレビシリーズ「銭形平次」初期の監督なのだといえば、ああと思われる方が多いかもしれない。

テレビの登場と、(佐々木監督も主犯と言って差し支えないだろうが)似たような作品の再生産によって、六十年代初頭映画界は斜陽の時代を迎える。そこに潰れた新東宝がテレビに時代劇作品を売り払ったことが追い討ちとなり、さしもの東映も経営が成り立たなくなってしまうのだが、ギャラの高かった佐々木はまっさきに東映から首を言い渡されテレビ転向を強いられた。


テレビ草創期のドラマが錚々たるメンツで作られていることは有名だが、昨今はジャニーズで復活という、それは宝塚なのか稚児趣味なのか、泣いていいのか笑っていいのか分からない状態になっている必殺シリーズも元は三隅研次監督によるものだし、「木枯らし紋次郎」は市川崑監督の手にによっている。「スチュワーデス物語」が増村保造によるものだったというのには知った時結構な衝撃を受けたが(しかしなんとなく好みでないのでこの人の作品は見ていない)、この辺の話は掘ればもっとすごいことになりそうだがとりあえず私はこの程度しか知らない。



どうも話が脇にそれすぎるが、続きはまた明日以降に。