月影兵庫復活と、少し映画にまつわる話(2) 近衛十四郎編

佐々木康に関しては、松竹→東映といわゆる王道をいった監督といえるだろうが、その対照ともいうべき道を辿ったのが近衛十四郎である。
私はこの役者の映画全盛期についてはほとんど知らないので、その特徴的な映画人生について述べるに留める。

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近衛は一度社会にでた後、俳優を目指し市川歌右衛門プロダクションに研究生として入っている。その後日活に入社するがパッとせず、白井戦太郎監督に見込まれて亜細亜映画社に移り主役デビューを果たす。ここで二作の主演映画を撮るものの、亜細亜映画社はものの二ヶ月で潰れてしまい、これもまた白井の関係で、再び第一映画社に移っている。

ただ第一映画で撮ったとある主演作品は今ざっと調べた所出演作品として記録に残っておらず、いたとされる時期も永田の第一の存在時期と微妙にずれているようである。よくわからないが、この辺りはほとんどどさくさのなかの出来事であったのかもしれない。




近衛は結局一年程度で第一映画から大都映画社に移るが、この大都で近衛は杉山昌三九、阿部九州男らと共に時代劇の主演スターとして本格的に活躍を開始する。

大都映画は徹底的に大衆受けを狙った低予算量産ベースの映画会社で、二流三流のマイナー映画社ではあったが興行成績は良かった。私も近衛のものではないが(おそらく近衛の出演作品はもう残っていないのではないか)一本だけ見たことがある。筋はないも同然だがアクションの桁が違う。大都映画の終わりの頃には近衛の人気はかなりのものになっていたというが、素直に納得できるものがあった。



その後は1942年戦時のフィルム不足の関係で映画会社の大統合が行われ、この際大都は日活・新興キネマと合併、大映となりその終わりを迎えた。この大映設立の経緯についても永田の強引な手法が有名だが、今回の主題ではないので省く。
しかし近衛に限らないが、どうにも永田に振り回されているなという印象は持つ。



合併後は、大映には阪東妻三郎片岡千恵蔵市川右太衛門嵐寛寿郎というスターが揃っていた為、近衛には出番はなかったようである。当時の時代劇スターの大勢にもれず、近衛は同じく大都のスターであった妻水川八重子と共に剣戟の一座を旗揚げするが、戦争が進むにつれ興行は難しくなった。更に戦後剣戟はGHQの規制の対象となり、立ち回りの時間にも制限が加えられることになる。そのため戦中からストリップに押されるようになり、やがては混在するような形となって、正統派の剣戟は次第に成り立たなくなっていく。



この剣戟時代後、十年のブランクを経て近衛は映画界に戻る事になるのだが、ここで一転、近衛は独立プロを起こそうと奔走する。しかし金を持ち逃げされてしまい、独立プロは結局断念せざるをえなくなってしまう。その心中は察するに余りあるものがあるが、そのうちに松竹からお呼びがかかり、近衛は綜芸プロダクション所属という形で本格的に映画界に復帰する。
ただ一座の面倒などもあり、他の役者達に比べてその時期は相当に遅れたらしい。それが後々までたたったのではないかと見る向きもある。
(この段落少し加筆しました)


復帰後稀有な例として近衛は次第にスターとしての地位を取り戻していくが、一面として、最後まで近衛は二線級スターの線を抜けきれなかった。当時の他のスターの事を考えれば曲がりなりにも返り咲いただけでも奇跡に近いのだが、ある程度近衛を知る人が一様に持つ感想として、どうもこの人はずっと実力に比した活躍の場を与えられなかったという印象が強い。

個人的には主演映画を見る機会もあまりなかったが(たぶんあまり上映されないのだが)、この人はいい監督いい役者と絡むと強烈な印象を残す。殺陣にも際立つものがあるとされ、ただの役者でないのは明らかなのだが。



近衛最大のヒットシリーズといえば東映時代の「柳生武芸帳」シリーズだが、ファンから見ても魅力を生かしきっているとはいえない映画のようである。私も少し見たことがあるが、この近衛という役者にはどうにも見るたびに実力を発揮し切れていないという歯痒さを感じる。




次回はようやく話を現代に戻す。


近衛については資料そのものが少ないようだが、今回は下のサイトを参考にした。




【参考】
魅せる剣戟スター 近衛十四郎



追記
永田と新興キネマについての記述に誤記あり。第一映画については今回関係がよくわからなかったので、周辺の文章を削除しました。