女が不幸であるか


物心ついてから、私の周りの女はみな不幸だった。


結婚というものがどんなものか。それはうんざりするようなものでしかなく、同時に決められた義務のようなものなのだろうと私は解釈していた。誰も彼も大人の女たちは結婚によって不幸になっているように見えたし、しかし同時に金を稼いでくる夫に対して、何かしらの負い目を感じないのかと私はこっそり思っていた。彼女らの年代では自分の手で稼ぐというのは酷く難しい事ではあり、日常の生活の中で何だかんだ言いつつ、夫を自分や子供たちより優先しているものではあったが。


過去、離婚したいと思わなかった女性は周りにはいなかったし、彼女たちの夫への悪口に、私は圧迫され続けていた。それは息もできぬほどの苦痛であったし(私が過敏すぎるせいだっただろうが)、それを麻痺させてやり過ごし続けるよりなかった事は、私が女性への恐れを未だに捨てられない事につながっている。



私を一度は捨て去った人の、だが消えたかった気持ちはわかる。その人は愚かであっただろうし、自分のやった事の意味もわかっていなかった。愚かである事を責めて何になるのか。
だがそのせいで、一人の人間がどれだけ苦労し、またどちらが善であり悪であるという事もない。在るのはその人その人の内の問題であり、ある立場では、私は彼を悪であると見なさねばならなかった。少なくとも、自分や自分の大事な人を苦しめたのであり、空虚な思いに囚われたあの日は、感じる事も失った私の人生の中で、某かの道程をなしていたのだろうか。



子供であった自分、この体を引きずる自分に、何ができたというだろうか?
私は彼女への負い目を一生捨てられないだろう。社会への負い目のようなものも、おそらく捨て去る事はできない。
現実として、私はこの足で立っていないのだから。



あなたが何を思ったとして、私が何を言えるだろう。
自分があなたより彼に近い人間であることに、しかし一個の人としてさえ存在しきれない私は、結局誰と似た人生も送る事はできない。



彼女の人生の不幸を思うならば、それら全て、そして私は彼女の生きがいであり不幸の延長であるのだろう。


彼は、理解されたいと思った事があっただろうか。今更通じ合おうとしても無駄なことだ。あなたは一人で生きていける人ではないが、家庭を持っていい人ではなかった。
もっとも、大概の男性はそんなものであるのだろうが。




彼女たちの不幸の色彩に、自分たちの思い込みと愚かさは感じられる。それを指摘したとてどうなるものでもないし、ではこの先私が行き着く先は不幸であるのか。破綻するのであればそれは不幸といえるのか。全て。


彼女たちの不幸と同種のものは、私にはやって来ない。やっとわかった。私は彼女と彼女と、同じ種類の人間ではないという事。そしてその事実にどこまでも折り合いをつけられなかった事を、私は現実に認めつつある。行きつ戻りつ、己を責め苛み、自意識への彼女たちの冷笑の声を抱えながら、何よりも自分からの馬鹿馬鹿しいという視線を強烈に感じつつ。




人生が綺麗に終われるのなら、そんな楽な事はない。
終わりだけ綺麗に行くのなら、生きる事全てそれで構わない。他の部分などどうでもいいい。


私の中にあった、生きる為の思い込みや呼吸に、あともう10センチと思うことがある。昨日もそうだった。
それが幻であるのか。
このまま馬鹿げて終わっていく事も、ただ受け入れるものでしかないが、自分が「あってはならないもの」であった事実が、違う形で思いに浮かぶ。


なぜ自分の体が思い通りに行かなくなったのか。
その事実が私に示している事が、見えるように思うことがある。それが幻でしかないとして。




女の美しさとは何だろうか?
美しい女は、動きの動機も醜くはない。人が見て美しいと思う要素は、意識されるよりはるかに多くの物を含んでいる。
整うという事。意識。自意識。美しくても見向きもされない女。
身体を損なえば、美しくはありえないだろう。しかし、この意味をどれだけの人が理解するのか。



私の感覚は、自分を破滅に追いやった。
彼女たちが正しく、己が間違っていると思い込もうとした事は、自分を根本から歪めただろう。




あなたのその心の不安は何だろう。
それは、私が見て来ずにきたものではある。