その弱さ

祖父が死んでいるのを、最初に見つけたのは私だった。
彼が死んだ時私は四つだったが、奇妙な事ばかり覚えている。祖父が祖母を連れて、私を見にやってきた事も。それは、もう二人が死んで後の事だ。


私は救急車に乗るのを嫌がって泣き叫んだ。それはつまり、私が見つけた時祖父はまだ死んではおらず、しかし幼い私が祖父の眠る姿にただならぬものを感じたという事ではあっただろう。「おじいちゃんが死んでる」と別の部屋にいた大人たちに知らせながら、それが正しいのかかすかな滑稽さと迷いを感じた事を覚えている。


私が最初に祖父の異変に気がついたのではなかったかと言うと、母は私がそう覚えているのならそうではなかったかと言う。祖父の記憶は、それが夢であったか、現実であったかすら判別がつかない。けれど彼女は、私が言うのなら、と言う。



毎日、母が祖父の車椅子を押して、近くの坂道を上りきるというだけの散歩を繰返していた。聞くとそれは現実であったという。しかし私はその情景を夢に見た様にも思う。夢の光に包まれた記憶は、私の内にいつまでも残っている。



散歩する坂道のすぐ横には、火事が起こった時逃げられるようにと、祖父が自治体に申請して造られた橋があった。火事であまりに多くのものを失った人だった。
破天荒ともいえる人で、何度も失敗し、何度もそこから立ち直った。度し難いほどの女好きで、祖母を亡くしてから七十を過ぎて銀座の女と再婚しようとした人だった。


家族に言わずに随筆を書いていた事。骨董を見る目も、芸事を見る目も確かであった事。そして人でなしといわれても仕方のない人であった事。
祖父が生きていたら、きっと私と一番話が合っていただろうと言われた。不器用で、あまりに繊細な人だった。祖母が死んだ後、一人前の人間とは言えなかったのではないかと、母は言っていた。男などは女が一緒にいてこそ一人前なのだと、彼女は言った。


地の底からうめくような声で、毎日のように祖母に仕事の弱音を吐いていた事。祖父の弱さも、人としてひどく魅力的な人であった事も。自分が死ぬ事を極度に恐れる人であった事も。嫁には何も言えない人であった事も。



若い女はなぜそこまで残酷になれるのか。
なぜ己よりはるか上の人を見下し、踏みにじる事ができるのか。
愚かさはそのまま、ただ歳をとっていく。


母になって女性は変わるだろうが、そこでする苦労によって彼女も変わったが、そこで失うものの方を私は昔まるで見なかった。おそらく順序として逆だろうが。


愚かさの様相は変わるだろうか。
おそらく変わるだろう。
母である女に、誰が何を言えるのか。その姿を見つめる以外に、何ができるのか。



自分より子供が大事になるというが、どのみち歳をとれば、己など可愛くなくなるものだ。そこにある愛情だけが母の偉大さであるだろうし、身を捨てて行動する事など、大して難しい事ではない。
同時に母親として欠損のある女であっても、私はそんなものであるだろうなとしか思わない。




女は弱いものであるだろうか。
心において、男ほど明確な姿で傷つきはしない。
その傷はもっと内にこもっているし、私は自分と同じ女が傷つくのを見る時、どう声をかけていいか分からない。他の人間のように、彼女に優しく声をかける事ができない。私には慰める姿は偽善に見えるし、だが声をかけなかった事で人でなしと責められた事もある。


彼女達はあれらの行為によって傷が少しでも癒されたのだろうか。であれば、私は声を掛けるべきだったのか。大してその人間のことを思ってもいない、彼らの言葉で彼女たちは癒されたのか。何をしてやればよかったのか。



彼女たちは傷ついていたのだろうか。それはもっと他の様子ではなかったか。そこにあるものこそが不幸につながるものではなかったか。
いやこれはただ、私がお前は傷ついていなかったと彼女たちに酷い言葉を投げているに過ぎないだろう。傷ついていないなどということはない。私の中の奇妙な違和感は何なのか。



なぜ心が傷ついているように見えないのか。脆くない。心の奥は別のものだ。
女のほうが命が長いのも、場を作ることができるのも、不幸でいられるせいか。



なぜこうも、不安定になっているのか。