親という存在は、

子供にとっては自分を生み出した全てである。
自分がそこにいるのも、どういう風に存在しているか、それは全て己のちゃちな意志などに関係のないものだ。
少し前、友人に自分の祖母の家の話をした。正確に言うと、それに絡んだある有名人の家のいろいろの話でもあった。そこにあった日常の小さな悲劇。輝きを持った人間が生まれた裏に、その本人も預かり知らぬ汚い事情があった事。


自分の存在はどの道、祖先や周りの人間と不可分であるし、その関わり方がおかしいからといちいち責められるものではない。本人が相手を責めることは、その関わりの中のひとつでもあるだろうが、他人が一般化して得々と語る神経は分からない。そして責める事自体、しばしば幼さゆえの愚かさであると思う。であるなら、それはおかしいのだと、大人が彼ら「責める本人」に示してやる義務がある。理屈によってではなく、そういう倫理的規範を問答無用で刷り込む必要。甘えなど邪魔なものだと、張り倒してやる事がなぜされなくなったのか。まあ私が言う事ではないが。


例えば自分の場合。
親という存在は自分をここにつなぎとめる存在だったし、それは今でも変わらない。多分私は自分が存在することに自身がなかったのだろうし、世話になっている限りはその人の意向になるべく添おうと思っていた。ある意味で親に甘える事が出来なかったのだろうが。だが結局それは私にとって大事な事ではなかったし、子供の意志を親の圧力ですべて読み解き良しとするのは、己の内にある幼稚性をそこに見て肯定したいという欲求ではないかと思う。そういう社会、があると思いたがる社会を語る人々。くだらね。
そこまでも行かず、単に判りやすい構図で思考停止しているだけかもしれないが。


親と子の関係は普遍的な要素を持っており、そこにある甘えも、つながりも、大きな要素であるには違いない。それは繰り返し繰り返し、語られてきたものであり、普遍の命題ではあるだろう。親が子供を拘束したから悪いというような論調は、つまりはそこにあるものを、きちんと捉える力を失ってきたからだ、と思う。


母親はいつも子供の育て方を失敗したと責められるが、最初から誰でも不完全な人間が親になっているのに、くだらねー、と思う。「お前が悪い」と指差す人間は、いつも自分の思い入れや罪悪感を、非難する方に向ける。自分の心の中にある何かを他人に見て、もっともらしいことを語り出す。
自分は無謬の存在である。


そんな人間ばかり見てきた気がする。
それで、そんな人間に自分は追いつめられてきたなあ、とつらつらと思い出す。