その後ろ

そこにある問題は、私とも無関係ではないだろし、彼らが限界を超えたところに立たされているのも事実なのだろう。彼らの状況も報道されないのだろうし、理不尽な訴訟にも遭うというのもわかる。「やっと声を上げ始めた」と彼らが叫んでみせる意味もわかる。だが、彼らのその喚きのうしろに、無言の存在はある。常にあった。彼らの眼差しに入らない人間たちの存在を、過去繰り返し「簡単に」踏みにじってきた事。「完全ではないから」と言いながら、その不完全性を理解しようともしない事で、多くの人間を追いやった事実。幼稚な理解で、人を解釈できると思い込むその共通性。


なぜ何度も何度も罵倒されねばならなかったのか。
なぜ苦しみを抱えた人間が、当にその苦しみによって二重にも三重にも、追いつめられていかなければならないのか。何も感じられない人間が、それでも現実と無関係ではいられない。
彼らの声を聞いていると、何度殺されねばならないのだろうと思う。


以前「失恋した人に、恋は悪くありませんよと言ってるようなものだ」と言った奴。何度見せつけられてきたかわからない、人を見下すその幼稚さ。なぜ人の苦しみをそんなに安く扱えるのか。なぜ人が馬鹿だと思い込めるのか。馬鹿だから自分たちを責めるのだと思い込めるのか。
そんな人間しか、目には入らない。愚かではない人間も、愚かであると彼らは解釈し、独特の表情と声をこちらに向ける。何度見たか分からない。そんなもの。昔は馬鹿だからと無視できる立場にはなかったのだから、私は。


もし私が「それ」になっていたら、すぐに線路から外れただろう。私には彼らの見えないものが見えるから、そこに留まる事など出来なかっただろう。


自分たちが「理不尽な状況」があることに自信を持っている限り、彼らに苦しみなど分からない。声にならない見捨てられた苦しみは、もっと違うところにあるのだ。