そういえば今年はティーブレイクの福袋

というのもありますよ(ttp://www.t-break.com/fukubukuro2016.htm)。

店舗では今日から初売りのようですが、ネットでもまだ販売しています。
ここのセレクトは非常にしっかりしているのでお勧めですが、福袋の場合、通販はジークレフと同じく代金着払いのみなのですよね。同居人がいて文句が予想される場合は店舗一択になります。

ちなみにここは井の頭公園沿いにあるのですが、公園の中から行くのはお勧めしません(なぜなら私が迷ったから)。大通りから入って坂を降りる道を推奨します。


他をざっと見たところ、ジークレフは売り切れてたのがまた復活しているし(ttp://www.gclef.co.jp/)、一芯二葉さんも今年はまだ売っている(ttp://issin-niyo.shop-pro.jp)。
シルバーポットもまだやってますね(ttp://item.rakuten.co.jp/silverpot/c/0000000156/)。
まだ結構買えるみたいです。



<参考記事>
紅茶福袋、例年のラインナップ - エレニの日記

報道関係者による嫉妬から学ぶ「朝日新聞の立ち位置」

内容的には大した記事ではないけれど、最後の段落と筆者紹介が期せずして色々語っている例。

"古舘降板で見えた電通の力、朝日の衰退(ニュースソクラ) - Yahoo!ニュース"

一方、古舘氏とペアを組むコメンテーターに起用されている朝日新聞社の立野純二論説副主幹の評判は芳しくない。テレ朝の番組審議会関係者は「あまりにも通り一遍、図式的な物言い。見ていられない」と酷評する。「あらかじめ、こうやって切ろうというのが見え見え。しかも、上っ面だけの批判で、批判にすらなっていない」と指摘。テレ朝幹部もそうした意見を踏まえ「現在の朝日新聞社は人材が払底し、できる人間がいない」とこぼしているそうだ。朝日新聞社は、テレビ映えする記者がすっかり払底した模様だ

筆者・会澤正視 日本経済新聞編集委員の土屋直也が編集長を務めるニュースソクラの専属ライター。大手新聞社で25年記者を務めている。主に経済を中心に取材・執筆。


まあ、複数の「大手新聞社」で朝日新聞は常にこうして妬まれてきたんだろうねという。だから産経と朝日を対にして語ってるのを見ると、未だに笑っちゃうんだけど。


記事には関係ないけど、このキュレーションサイト「ニュースソクラ」(ソクラテスの「ソクラ」らしい)という名前も「ニュースアゴラ」のパクリに見えて仕方ない。
ザックリ検索した限りこの会澤氏の名前もあまり引っかかってこないし、名前を変えて書いているんだろうか?

まだあまりきちんと見てないけど、なんか大丈夫なんだろうかこのサイト。

「評価」すべきこと

私は感情というものを指標に文章を書いてきたけれども、それが正しかったのかよくわからない。
それは酷く間違っていたのだとも思う。

書くべきものを書かなければいけないけれども、自分が考えていた事について唖然とするような事を忘れている。
自分に「老い」が忍び寄っている感覚もあり、なぜ今になってこんな事がわかるようになるのかという呆れのようなものもある。


日本語圏の外を見ていてひとつ痛感するのは、ここには「評価」の仕組みがないことだ。
わたしが何か書いて誰かにそれが届いても、それは程なく霧消してしまう。無知を糊塗する為の冷笑に再び埋め尽くされて、結局また一人で取り残されてしまう。
そんな繰り返しを、今更もうやる気にはなれない。


これまでわたしが一番苛立ったのは、予防線を張りながらこちらに関わろうとした人達だった。
彼らはあまりに擬似的な「表現」に慣れすぎていた。そして多くの人は自分が何を求めているかすらわかっていない。
こう書いても、おそらく大半の人からは傲慢だと言われるだけだろう。そしてその「予防線」がどれだけ馬鹿げているか、社会をいかに損なっているか、その臆病さにもう付き合う気がないことを、わたしはここで繰り返し書いてきた。そしてそれは理解されなかったと思う。


未だに誰もがお気に入りの「教訓」をひきだし続けている東京五輪のスキャンダルは、日本の広告界の空虚さをあまりにあからさまにした。
表現がされる必然を、それがもっと自然な環境でされるべきである事を、頭の幼い彼らは理解していない。ああした人々に空間を牛耳らせている限りここにある息苦しさは変わらないだろう。

彼らも我々も、彼らの仕事の自分に対しての影響をおそらくは過小評価している。気がつけば今の我々の生活は彼らの生み出したものばかりに囲まれているというのに。
彼らの近視眼的な感性と、それによって生み出される仕組みと、そしてその仕組みを再生産する貧困は無論我々の社会の必然であるのだけれども。


遡れば、このブログを始めるきっかけはあるカルトに関わる事柄だった。誰かがカルトや過激主義に真実を見つけたと信じてしまうのは、そこにある「求める感覚」を、社会が(そして擬似的な物しか知らない彼らが)無自覚に押し隠してしまうからだ。おそらく本当の意味での禁忌というものは既に失われているし、であればその禁忌は空虚なものでしかない。


伝えなければならない事があるのはわかっている。ただ糸のような繋がりを辿って何かを書くにはあまりに疲れてしまった。わたしの慣れ親しんでいた物も多くが失われて、伝える手段もとても少なくなった。

もしわたしが健康であったら、「評価」の仕事を自然としていたかなと思う。自分が感じる物を他人に伝える事の意味を、わたしは少なくとも知っているから。


今これを書いていてひとつ思うのは、手垢のついた表現であっても、使い古された切り口であっても、おそらく使うことを躊躇ってはいけないという事だ。例え同じような反応しか返ってこないのだとしても。


ただこの文章を多くの人に伝えようとする努力をわたしはする気がない。
それではいけないとわかっているけれど。

ソフトバンクの広告への反応を見ていて

ソフトバンクの電波って実際どうなの? 色々聞いてみた。 - Yahoo! BB
http://bbpromo.yahoo.co.jp/special/denpa/


この記事見てて思ったんだけど、技術に詳しくない人に技術のアピールは普通に荷が重いんじゃないのっていう。全体像が見えない人にやらせても、用意した側の枠内で記事を書く以外ないわけで。そのあたりでギャラリーから拒否反応が出たように見える。
記事中では単に電波の話しかしていないのに、ブクマではソフトバンクという企業への非難一色になっている。

url見るとプロモって書いてあるし、記事の構成からしても普通に広告記事(というか自社アピール)なのは明らかなんだけど、そのあたりの受け取り方も混乱しているようではあり。
広告表示が無かったことについては、わたしはねとらぼの森永記事の方がよほど気になったんだけれども。


で、なんかなーと思ったのは、ヨッピーさんを既に神聖視して「裏切られた」的コメントがチラホラ見られた事で。これはちょっとご本人大変そうだなという。嫌な言い方をすれば「ステージが上がる」時に課されるハードルなのかなという感じにも見える。

大企業の広告になれば、その会社のやってる事を全方位的に見渡しながらスタンスを決めなければいけない局面も出てくるんだろうし、それには用意された蓄積がないと、数こなしていくのは難しそうに見える。
極端な例を出せば、事故前の電力会社の原発アピール広告なんかがあって、多分出演していた芸能人は経産省や電力会社の人の「原発の必要性を理解してほしい」という説明や熱意にもそれなりにほだされてもいたんだろうし、彼らに色んな構造や問題が把握できましたかというとそれは無理だと思う。
でも後から見れば、その出演どうなのよって事になるわけで。

ヨッピーさんは今のステマ全盛の状況への「アンチ」の旗手として見なされてきているんだろうけど、関わる企画・裏方の存在を考慮に入れるとしても、ちょっと期待が過剰すぎるようにも見える。
しばらく前のはてなでの取り上げ方からして、彼をひとつのロールモデルとし提示していくようではあり、でもそれちょっとまだ早くないかっていう。


彼に限らず、ステマに陥らないように工夫された記事を見ていると、すごく考えられているんだろうと思うし、舞台裏で継続的な努力が相当に必要なんだろうなと思うんだけれども(関係ないけど、ヨッピーさんの記事は「きっとこれ現場は寒かっただろうな」と思える記事がチラホラある)、なんというか、自分以外の試行錯誤を対象化・理想化してしまうのって、結構深刻に状況を歪めてしまうように思ったので。


ちなみに、少し前のご本人のブクマコメントの『「みんなが気になってるけど誰もやらないこと」が最上だと思ってるので』が個人的にとても印象的だった(やっぱり星付けてる方多いですね)。