あなたに何がわかるのか


ブルースのルーツを探っていけば、それは労働歌で、日本のそれと変わらない。
時間湯で歌われる湯もみ歌も基本的に同じものだろうし、杜氏や筏師も杣も唄を歌っていた。


音と歌に関しての感覚に、私という存在は尽きている。理性とそうでないものが共存するのは、自分の根がそこにあるからだ。
狂気がひとつところに収斂されているのなら、それは異質さでも異常さでもない。幾つもの狂気とシンクロしながらもわたしがここに居続けたのは、ずっとそれに狂い続けていたからだ。


自分のこの資質が、他の人達と同じなのか違うものなのか、自分には未だにわからない。ただ、生きようが死のうがどうでもよかったし、この真っ白な感覚だけが全てだった。


こんなものうわごととしか取られないのだと、幼いわたしはわかっていたし、だから何も言わなかった。
結局この絶対的なギャップに身体が耐えられなかったのかもしれない。いずれ何もわからないけれど。



うわごとを形にして、ここでは書き続けてきて、だからといってどうということでもない。なぜ自分が前時代の物に固執するのか、失われた感覚を少しでも確認しておきたかったからか。理由はわかっているけれど。


生きる事と自分の感覚が矛盾するという事は、耐えがたいことだ。理解はしていても、誰にとっても認め難い事だ。これはわたしだけでなく、おそらく全ての人に言えることだろう。
それはずっと知っていた。だからこそ私の言葉は伝わるのだから。



わたしは本に書かれた言葉を知らない。
だから、自分の書いてきたことが、他の誰かが既に書いた事なのか、自分と似た人がどこにいるのかを知らずにきた。


今でもそれは知らない。これからも知る事はないだろう。
いずれ言葉というものがどんなものか、今見えているものを書き残していくだけだ。