ほぼ同意見ということになってしまうのですが

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20071001#1191195663
(トラバ用リンク)


私も継続して追っている問題がありますから、おっしゃっていることは理解できます。自分がこの問題にコミットするのはどういうことなのか、限界ということも含め一時期かなり考えました(現在はほとんど関わっておらず、以前もブログで取り上げていただけに過ぎませんが)。自分の個人的な状況と重ねる部分もあり、それは良いことでないという自覚がありました。ただ重ねるということが私だけのことでないという事を知って、イデオロギーなしにこの種の問題に関わるのなら、結局個々の深い傷の部分に触れたときでしかありえないのだということに気付き一部吹っ切れました。


構造という指摘は非常によくわかるのです。何か一つ継続して追うならその問題に呑み込まれることになる。無力さを痛感させられるわけです。
ミャンマーの問題でいうなら仮に軍事政権が倒れたとしてそれによって抑えが効かなくなる部分、スーチーさんが出てきたからといって解決するわけではない、生まれるかもしれない混乱まで射程に入れているのかということもあるでしょう。私は今回詳しく見る余裕がありませんが、ブログで発信している人たちのことも構図の中で見ていかなければならない。私が関わるとしたら構造を提示する役割を果たします。ただそれを把握するだけでかなりの労力ですし、それが出来ないなら私はやらない。私にとってはそれだけです。おっしゃるとおりどう関わるのかという主体的な問題になりますし、最低限構造の理解に基づかなければならない。一言でいえばミャンマーの様々にいる民族の構造の生み出す困難とその苦悩を負っていけるのかということでしょう。もちろん他者である限り本当に「負」えるわけではないのですが。


ただ今回は報道統制からブログというツールが使われたことが私を考えさせた点ではあって、何らかの接続を持つことはある必然ではないかと感じたことがありました。
ブロガーは主体的に関わるということに関して私はかなり意識的です。ただある流れがあるとき私はそれを止めたくないという思いを持ちます。思い付きの関わりによる暴走への懸念ももちろん持っているのですが、今回はそこに必然の流れがあるようにも思いました。今回のことが一つの経緯にすぎないということはもちろんBB氏も理解されているでしょうし、今そこにある何かに触れたいという思いが私のなかにやはりあるのだと思います。その中にミャンマーの抱える問題の本質があるのは事実でしょう。
あまりうまくまとまりませんが。