くだらない話


「あなたは三島由紀夫なのね」と言われた事があった。

大して意味があった言葉ではなかったが、未だに耳に残っている。



社会の持つ共通の感覚というのはなんだろうと、しばらく考えていた。共通の恐れの感覚、動かしていくもの。社会の意識を掬い取っていく事は可能だが、その裏っ側の擦れるような物を言語化するとき、一種くすぐったいような感覚も生まれる。


人がどんな意識によって生きているのか、日常の集合体のようなものだが、激しい思い込みのようなものがどこかで作用している。思い込みの形が人の目に明確に見えれば笑いの対象になるが、(自覚はないにせよ)それが存在するという意識の前提によって笑いが起きるのであり、笑っている人間もいずれ同じ形で笑いの対象になる。単に「いつ可視化されるか」というだけの話でしかないが、それでも人は笑う生き物である。こういう事は以前も書いたが、人を追いつめていく笑いと、恐れは一直線上でつながっているものかもしれない。



嘲笑の対象になるということは自分であるにせよ、他人であるにせよ、何かの作用が起きることではある。その作用について、私は軽く見すぎているのかもしれないし、自分の体が思うに任せないことで、生活も信用もいずれ全て失う日が来る事を考える。自分の最後の姿が見えていれば、結局それを引き寄せたいと思うものである。相反する拒否の感情もあるものなのだろうが、社会によって生かされているというなら、誰かのように社会を憎むこともない。社会を憎むとは、自分の生きられない意識の堅固な集合体を立ちはだかるものとしてみるのか。
自分に理解できるのは、ただそこにある音の届かない場所は、違う意識によって動かされているという事実だけである。



外側で音の何もないところで、ただ見ながら朽ちていくというものではあるだろうし、では声の向こうの意識はなんだったかという思いからも逃れ得ない。自分の意識や執着のような得体の知れないものがどこからきているか、何によって死ねるのか。人は自分と同じものを求めているものなのか。自分の求め続けるものは生を超えたものであるのか。ではそれは死であるのか。
己にとっては人と同じ状況があまりにも過負荷であるという事実、生きるという律が少々ずれているらしい事はわかっていても、それを認めることがどうしてもできない。


生まれて二分で死ぬ赤ん坊であろうが、過度の不自由さを持ちながら生きなければならなくても、生きるということには変わりがない。ではそこにある生きる律は、他人とは違うものであるのか。生きる上で負わされる意識上の義務は状況によって違うのだし、そこにある律と限界を超えて相容れなくても、それは不幸な偶然でしかないだろう。合わなければ声もなく消えるだけである。そうやって人は死んでいくが、そこにあるものが意識される事はない。



生きる律と生きる上での執着とのつながりを捉えようとする事を、否定してしまうのはなぜか。明瞭な意識と生きる上での思い込みが重なる事を恐れるのは、それが逸脱を意味するからである。でありながら誰もが例外なくその逸脱を求め続ける。そしてその意識が顕になった時、踏み外した時どう見えるか、何が起こるかということでもある。


意識が切り替わる時、自分を縛り付けるものからふと逃れる事がある。生きるということは結局枷でしかないのかもしれないが、自分の腕を意識する時、生というものを感じる。ではこれはなんなのか。存在するというエネルギーはあまりに大きい。




自分が何によって生きているかといえば、誰にとっても自己満足であり、それ以上の何物でもない。そういった切り取り方はできるが、隣り合った狂気を見たときにふと恐くなった。
存在していることがばらばらになった時、社会という形で律せられなくなった時、どんな状況になるかといえば、狂気と混乱の状況であり、意識もそしておそらく身体も律する事ができなくなる。身体を律する事ができない状態について、通常の人間はおそらく充分に理解できない。意識を超えてあえて一歩踏み出すことが結果どんなことを産むのか、それは災いでしかないかもしれない。
囚われている場所は、正気を保つ唯一の手段であるし、人である限り全てを望む事はできない。存在するこということが呼び込んでしまう自ずからの限界があるのかもしれない。



余計な意識を、声が生む意識は超えていく。声はこの場合、字義そのまま声の事であり、否定の意識は世界が生んだものだろうが、否定の意識にとらわれる事は、否定以前に在る要素を自分が持っているからだ。




この間人と話していたが、身体について意識できる人はそうはいないのである。その特殊さをある顕れた形として指摘され、ややうんざりした。
隠された意識を共有することができた時、もしくは引っ張り出された時、相手に何らかの親近感と、ある種の特別な感情を持つ。




今度治らなければおそらく一生このままだろうが、その重さを抱えながら、愚かでも、何かを求めていかなければならないのだろう。吐きそうになる事でしかなくても、生きていく意識が捨てられないのはなぜなのか。