カルトについて

たとえば、私は新興宗教には比較的寛容な姿勢を取っている。霊的なものの作用というのを私は否定しないし、一見胡散臭く見えるものでも、必ずしも中身がないわけではないからだ。既に宗教の治療技術について書いたが、その霊的な作用も私は否定するつもりはない。そこに神がいないとも思わない。
神とは必ずしも絶対のものではないが(ここでは一神教の神を指さない)、人が意識で抗えるものではない事も承知している。「黙って従いなさい」という言葉に、私は不合理を感じない。
追記新興宗教とカルトとは、重なるにしろ峻別されるべきものだが)


無論カルトとは必ずしも宗教の事ではない。ただひたすら金儲けの為のものもあるが、そこに一片の真実がないと誰も言い切れないだろう。私はその真実、若しくは真実らしきものに耳を傾けるだろうし、それを限度を超えて心に受け入れてしまう事もあるかもしれない。私はそういう危うさを自覚する人間である。既に書いたが、松永さんへのシンパシーを見ながら、私はそれと共通するものを自分の内にも見ていた。



しかしどうだろうか。彼らは彼らの基準を逸脱するものを認めない。宗教とはおおよそそんなものだろうし、共同体、社会もまたそんなものでしかない。だが彼らの設定する基準を、見せかけであっても満たせない者もいる。「ならばお前が悪いのだ」と言われる事に、疲れきってしまった人間もいる。

社会に参加するには、チケットが必要であり、最低限の能力が必要である。だがそれを持っていない者は常に存在しており、彼らはそこから、その眼差しで世界を見つめている。


「あなたはこうでなくてはいけない」と言われ、あなたはそれを満たせるだろうか。「ではまず深呼吸してください」と言われて、それをできる者ばかりではないのだ。


現実世界でも受け入れられなかったものを、なぜカルトに入ってまで同じ事を繰返さなくてはならないのか。もしカルトに一度入ってしまったとしても、そしてそんな事は十分あり得るのだろうが、また否定され受け入れられないだけの事だ。



宗教は彼らを救うものであったかもしれない。宗教というものが殆ど壊滅してしまった世界では、それに代替するものを探すかもしれない。そしてカルトとそこの間に、明確な線もないのも事実である。
だが本来、宗教は人を救うために存在するものではないだろう。心の弱さをごまかすために生まれたものだなどと、そんな事は信じない。私はいかなる信仰も持った事はないが、宗教とは「人の為」にあるものではない事位はわかっている。それは実際、全く正反対ではないのか。



カルトにはまりやすいのが、日本人だけではないというのはその通りだろう。
だがこの所、オウムにシンパシーを感じる人間には、ある種の共通性があった。またブロゴスフィアの中でも、そこに引き寄せられる危うさが見て取れた。そこにあったのは幼さであり、無防備さであり、そしておそらく時代性という要素だった。カルトもまた時代によって変遷を遂げているだろうし、現在ネット上でも横溢しているそれには、やはりある特性が感じられる。


確かに何らかの状況に陥れば、人はいかなるものにも成り得るものだ。だが今目にする、引き寄せられてしまう人間たちの「現実を知らない甘さ」というものは、私の中には存在しない。自分も別の意味で現実を知らない馬鹿野郎だが、彼らの持つ愚かさは、私がずっと目にし続け、うんざりし、苦しめられ続けてきたものだった。


彼らと私は同じ世界に存在している。関わる事はどちらにしろ不可避である。ならば己の弱さと彼らとの共通性を見るのみでなく、現実のフィールドで彼らを他者とし働きかける事も、確かに必要な事ではないか。私は自分の心と弱さを見ようとするが、危うさだけを数える事はしない。そして彼らの見られない弱さと愚かさとを白日の元に晒してみせる。
心を見ようとしない人々に、何を言っても無駄なのはわかっている。それはカルトについてだけでなく、何を言おうが、働きかけた所で、逃げる心を現実に引き戻す事など出来ないのだ。



私はこのブログを始めて、書きながら何も相手に作用できないことは知っていた。だが私のイライラは止まらないし、それを止める必要もない。違う存在として関わり、時に彼らの何かを否定する事は、ただ「現実に生きる」事でしかない。


彼らの甘さはこちらを侵食しようとし、私はそれを否定し罵倒する。
彼らはそこで私とは他者であり、私自身の弱さはまた別の場所にある。