ミャンマーについて BB氏へ 続き

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書かれていることにほぼ同意するものであり、BB氏の「非人道的ということはどういうことなのか」に一貫したテーマが読み取れますし、その見解に付け加えるところはありません。ここであらためて私の立場を私の文脈で表明するべきなのかもしれませんが、それをするには少々疲れていますし、そのことがあまり重要であるとも思いません。ただ「知的誠実さ」「意志の継続」というのは少し違う受け取られ方をされているんだろうなと。


北朝鮮のことであっても拉致と脱北問題とリンクさせないと本来きちんとした対応が出来ません。個人の認識のみならず、日本政府はここを戦略としても間違えたと思うし、その認識が構造の認識の必要という文脈につながっている。
グルジアのことについて触れましたが、結局欧米メディアの支持はなんだったのか。大国の間で小国が翻弄される構図はかわりませんし、ウクライナグルジアの現在の状況を見るとき、構造は何も変わっていない。我々がそれについてどれだけ知っているか?ほとんど知りません。ミャンマーの軍事政権の問題と比べるのは適当ではありませんが、関わり方を深く考えず他者と同一の立場を取ることは現実に多すぎ、結局それは百の内九十九、暴走とその後の荒廃を呼ぶだけです。
無論今回BBさんはそこに明確に距離を置いていると説明されたわけですが、知的誠実さという言葉に少し違うということを言いたかったので。

痴呆になるとか

私はあまり恐れとか感じない。私の発想ではそれは現実の死に直結する。孤独死とか、そういうものだろうし。そういう意味での恐れはあるけど、切迫したものではない。まあ後遺症の問題があって、二、三割しか頭働かないしね。そのこともやはりどこかで影響してると思う。


元々死ぬ時はひどい死に方をするものだと思っているし、それは私の中で人としての尊厳を一切合切なくすことと結び付いている。逆の言い方をすれば尊厳をなくした形で人の目に晒されれば、人ってのは死ぬもの。まあ普通に死ねれば儲け物っていうか、普通に死ぬというのは実は周りの大きな負担あってこそだしね。それが生活を維持していくということでしょ。私自身には最初からその能力がないからね。そこで人と完全に世界観が遮断される。今のうちに死ねば悲しませちゃいけない人を悲しませるにしても、普通に死ねる。


昔「笑いの存在」という文章を書いたけど、あるブロガーさんには全然通じなかったな。嘲笑の笑い。でも最近は人と話していてよく笑うようにしてる。こちらが笑えば相手も笑うからさ。通じるようなものがあって、それはやっぱり気持ちいいんだよね。



追記
このエントリは単なる独白なんで、よろしく。
話ずれすぎか。