今隠したもの


たとえば何のジャンルにおいても黄金時代というのはあって、それが終われば衰退の道をたどる事になる。


山田洋次は、若い頃に小津作品をワンパターンだ平板だと批判したけれども、黒澤明が小津を評価していたのを見てがらりと態度を反転させた。

山田は当時、松竹大船の世代交代も意識していただろうけれども(松竹蒲田の小津安二郎清水宏が野村芳亭監督に批判的だったように)、何よりこの世代の左翼青年はすべからく、旧世代への批判が己を偉くするものだと思っていたからだ。


日本の現代は、「語り物」の文化と入れ替わるようにして生まれたものだ。劇中寅さんは口上を述べるが、その舞台立ては満州帰りで東大出の山田の自意識によって、一つ上の段から演出される。


清水宏を「オヤジ」と慕った笠智衆や、渥美の目に、おそらくその自意識は決して洗練された物とは映らなかったろう。



現代性と「前時代性」とは、現実には入れ子のようにして立ち現れる。極めて洗練された意識と俗とは、どこかで常に交差する。

同時に前時代の腐臭への嫌悪感はついてまわり、誰もがそれを己から削ぎ落とそうとやっきになるのだ。


おそらくそこで、私の意識は他の何とも区別されないだろう。
同質の現代性を共有する限り、それぞれの衝動と後ろ暗さの内に何の違いも見出せないからだ。

自分が無意識に手に取ったものをたとえ後ろ手に回しても、その姿は結局全て見えている。