シャンパンカラー

以前知的障害の女の子と知り合って、その内の修羅を垣間見ることがあった。彼女は私などよりよほど女だったといえるけれども、それはちらちらと彼女の母親の目を通して見えていた。
無論娘というものは本来母親から女の面を隠すものであり、その意味する行き場のなさに私はぞくりとした。
おそらく私は彼女にとって女一般という嫉妬の対象であっただろうし、その嫉妬はだが現実には私をすりぬけていた。


その日戻りの暑さが来て、私はシャンパンカラーのセーターを脱ぎベージュのタンクトップ一枚に引っ掛けていた。そのせいで私は集団の中で一人浮いていたのだが、一緒にいた彼女は私をきれいな女だといった。私はその言葉を真に受けなかったが、彼女にとってその言葉がまるきり嘘でもないであろうこともわかった。
その視線と言葉は男の視線の感触に近く、彼女のなりたい女は男を通したそれなのだということが感じられた。その勘の良さに私は彼女という人間を思わざるをえなかった。私自身はその意味合いを避けてきたところがあって、彼女の貪欲さは私の深い部分を刺激する質のものでもあった。
おそらく彼女は一生かけても「諦める」ことにたどり着くことはないのだし、私と彼女との対照は、見る人が見れば不思議なものであったかもしれない。