キワモノ映画

というのにもそれなりに出来不出来があって、いまいちインパクトが足りないとか、これならこの間見たやつの方がとか、二回目に見たらつまらなかったとかいろいろあったりする。


監督さんにもキワモノかアート系かちょっと微妙な人がいて、ようするに「鬼才」といわれる人間の振れ幅というあたりだが。極めつけの鬼才ヘルツォークは以前日本に来て「オペラ忠臣蔵」の演出をやっていたが、演出を頼んだ方はいったいあれで何をしたかったのだろう。




キワモノ映画というと中川信夫の「地獄」も有名だが、私は見ていない(エログロはちょっと)。新東宝というとそちらのイメージがどうしても強くあるけれども、しかしこれも主演は一応天知茂だったりするのである。


中川信夫の作品は一昨年特集上映もあったので数本見ているが、後で見たら天知茂が準主役とあったのになぜか覚えていなかった。映画祭後発刊された中川信夫関連のメルマガでは、監督作社会主義バリバリ労働詩が延々と連載されていて、読んでいてどうにも困惑させられたが。

中川監督はエノケンから四谷怪談、プレイガールまで様々な作品を撮っているが、イデオロギーが時代性そのものだったとはいいつつ、撮った作品とこうまでかけ離れているものかと感心する。しかしまあ何せ大蔵貢の元にいたわけであれだが。



どこかで安藤昇が中川監督の事を無能もいい所だとぼろくそに言っていたが、安藤は石井輝男の映画の中途で役を放り出したことがあり、基本的にキワモノの要素がある人が生理的に合わないタイプであるのかもしれない。
安藤は石井が撮影中に千葉新一を理不尽に死ぬような目にあわせたことを聞いていて、いつかどうとかしてやろうと機会を狙っていたそうなのだが、安藤には(自分から見て)無能な監督が、意味もなくスタッフ・キャストを振り回す要求をしてくるのが我慢ならなかったらしい。そもそも安藤相手にそんなやり方をする人間も馬鹿としか言いようがないのだが。
安藤は加藤泰監督の一見理不尽なこだわりは評価しており、中川石井と並べると、二人にはやはり振り回し方にもサディスティックな要素はあったかなという気がする。



ちなみにその安藤が途中で放り出した映画というのは、高倉健主演『網走番外地 吹雪の斗争』だが(未見。特に実録ものは範疇外でもあり、安藤の映画はほとんど見ていない)、あらすじの最後の「真一は、轟と共に馬をならべて、大雪原の彼方へ去って行った。」というシーンは実は存在していない。撮る前に安藤が帰っちゃったからである。



石井輝男も「私は本当は(自分が助監督としてついていた)成瀬さんのような作品を撮りたかったのだ」と言っていたそうだが、石井輝男の人相を見る限りではエログロキワモノはあなたのごく自然な資質ではないかと言いたくもなる。まあこの時代の監督さんには特に撮りたいようにとれないというジレンマがあったのだろうけれども。


しかし成瀬の作品も実は映画会社から押し付けられた企画が多く、加山雄三を使った時はなかなか大変だったようである。成瀬映画にウクレレの音色は場違いであって、やっぱり若大将はあまりにも若大将だった、ということらしい。