実際のところ

見え辛くなっているのだろうし、問題は最初から二つに分かれていて、片方は破綻のない帰結などないことは見えており、それを解決するに時という要素が必要なのは明らかだった。


その要素は最低限ということでしかないし、時に対してどのようなスタンスでのぞんでいくのかというところで分かれたにすぎない。そして時が解決しない致命的な部分があるなら、それは可視になっていなければならない。



この「ほのめかし」がその人に通じるかはわからないが、あなたもまた他人を甘く見ている。目として機能するならそれは場であることがベストであり、その意識が投げ捨てられることは絶対にない。


幼稚な狂気と軸の狂いがそこにある事は最初からわかっていて、その声を聞こうと無駄な、馬鹿げた努力をしたからといって、狂いは最初から存在している。

良識とはそれを鮮明に捉え、突き放し、決して許容しないという働きであって、本来ならばごく自然に集団の意志として機能すべきものである。そこにリスクとなんらかの別の要素が個人に要求されるなら、その理不尽は許されざるものとして誰かの手で指摘されなければならない。


それ以前に、ここに私は怒りを感じ続ける。働かなかった何かとそこへの無意識。それは致命的なものであり、私の力が足りないことが明らかであっても、無視して通り過ぎることはできない。私はあなた方とは違う。自分の足元は誰かと共有されているものであり、それは時に自分の手で守るものなのだと知っている。その礎を遠く蜃気楼のように見て、他の誰かにその責任を押しつけるなどという、ロマンティックなことはしない。



スポンタさんの言っているある一つの部分について、ここでは軸がきちんと働かないのだということに愕然ともし、あまりに遠い射程を持たなければならない事にも気がついた。
私の考えは何も変わっていない。一つ越えられるべきものは越えられて、ここで変わったものはそれだけである。
取られるべき態度は初めから決まっていて、意識されなければならない何かは、無論曝け出されなければならないのだ。