月影兵庫復活と、少し映画にまつわる話(3) 書いた理由編


さて恒例というか、もう既に書く気力が失せているのだが、このシリーズは一応今回で完結(の筈)である。


今回月影兵庫復活で驚いた割に初回、今日と二回とも見逃したのだが、松方氏のこの番組に対する思い入れを感じたのには北野版座頭市公開時の出来事がある。


当時テレビでよく流れていたのは大勢のエキストラがタップを踏むシーンだったが、あれを一目見て私は映画を観る気を失った。
本数はさほど見ていないものの、北野氏はすさまじい才能を持った監督だとは思うが、あの画面に私は一気に醒めた。この人は時代劇の系譜に敬意を払うつもりはないのだなということも思った。


しかし無論見ていないわけだから何とも言い難いなと思っていたのだが、そこでおやと思ったのが時代劇をやってきた役者達の猛反発であり、中でも松方氏の反発は際立っていたように思う。おそらく彼らの反応は世間的には守旧派のそれと見られるのだろうと、私は漠然と感じたのだが。



今となっては田村正和の父親が坂東妻三郎の息子であることも知らない方が多数派なのだろうが、田村兄弟にとっても松方兄弟にとっても、父親はやはり最大の憧れの対象のようである。


そもそも松方氏が役者になったのには、父親の撮影現場に行ったときに、近衛の息子ということでそうそうたる監督やスターにちやほやされたせいもあるらしいのだが、当時スターであるということは、今のそれとはまったく意味が違う。



松方氏は今回PRのなかで「父に追い付け追い越せ」と言っていたが、時代劇俳優としては絶対に追い付くことはないだろう。それは本人もわかっている筈である。腰の決まり方、所作、松方氏自身が共演時相対して竦み上がったという際立った気迫。



奇妙に思ったのは当時五十だった近衛よりも、現在六十五歳の松方氏のほうがよほど若く見えることだった。


田村正和も「年を取ればいずれ父のような貫禄が身についてくるものと思っていたが、結局そうはならなかった」というように過去に述懐していたが、故高廣氏などは顔がそっくりだっただけに余計個性の違いが目についた。
阪妻の若い頃の感情過多とも言える破天荒な役者ぶりを知っているだけに、何がそれを分けたかということは感覚的にわかるのだが。

わかりきったことだが、格のある役者などもう生まれないのだろう。それは実際役者に限らない。




今回、ナレーションにオリジナルキャストとして焼津の半次を演じた品川隆二が当たっているが、実によく老けたものだという感慨を持った。
近衛は月影兵庫が喜劇初挑戦だったはずだが、品川もおそらく似たようなものだったろう。リズムはよかったがわざとらしさがどうしても鼻についたからだ。


品川氏を映画でも何回か見たが、任侠ものの準々主役といったところ。二枚目で役に適した鋭さもあるのだが、もう一つインパクトが足りないかという印象を受けた。この人にはもう少し書いておきたいエピソードもあるのだが、さしたる理由もないが今回はれを略す。



おそらく松方氏は今回時代劇全盛期を知る最後の世代として、あらためてきちんとした時代劇をやりたいという思いがあったのだろうし(しかし佐々木監督のそれもレビューありありの異端だが)、当時テレビ時代劇として大変な人気を呼び、父が役者として最も記憶されている月影兵庫を選んだことに、何かしら感じるものがあった。


氏にとって父親は役者としての尊敬すべき先達なのだろうし、その傑出した実力も、歩いてきた道が映画史演芸史を映した苦難続きの道であったことも、独立プロ失敗の時「みかん一山買えないほど」の貧窮に陥ったことも、近衛十四郎という役者の人生として息子の肌に刻まれているのだろうなと思う。



とりあえず終わりまで辿り着いたが、今回のエントリから何かしらの背景を汲み取っていただければ幸いである。