ことのは問題における公的感覚の欠落

この方は連邦軍という言葉をかなり意図的に使っていらっしゃるのが、気になっているが。
松永さんが納得してしまっているのが気になったので。


http://d.hatena.ne.jp/eshek/20070131#p1


公的な視点がはいらなければ意味はないですよ。
前提として、私が「会った方がいい」と勧めていたことも頭に入れて置いてください(その必然性があるかと思ってたかというと、そういうわけではない)。



現実に意味のない対立状態は続いているけれど、それは外野による所が多い。はっきり言って御堂岡、psycho両人のいやがらせが自分と関係ないという理屈は、現実には通用しないです(二人に指示しているといっているわけではない。また今この話を松永さんに向けるつもりもなし)。御堂岡さんに止めろとはおっしゃっているんでしょうし、止めても止まる人じゃないというのはわかりますが。

彼らの嫌がらせと同次元に置くつもりはありませんが、黒崎さんの推論には邪推が多いのではないかとも私は指摘しています。もちろん私自身の事もね。



政治懇談会に出たことが公的に問題になる事、それについて結局まだはっきりした形は作られていないわけですが(問題そのものは実質決着がついているだろうけれど、こういう性質の問題だと形そのものが大事になるので)、BB氏はずっとそれを要求していたわけですよね?宿題という形で処理すべきであろうという問題、聞きたい論点は提示されていた。それが為されるのをただ待っていたわけで、邪推されていたのは松永さんの方ですよ。物語の終わりを待っているんだというBB氏の発言も忘れられていたのではないかと。(何で私が説明してるんだろうな)



根本的に、政治懇談会や報道に身分を隠して関わった事が問題になるという認識がなければ、何も理解のしようがない(BB氏は今回明確にそれを書いてませんが)。これだけ事が大きくなった理由は元々それ一点ですが、松永さんは事を大きくしたのがBB氏の思い込みによるものだと思っていた。
公的に必要とされていたか、まだこの根本は解きほぐされていないと思います。松永さんはご自分が知らずにどれだけ大きな事をしたのか理解されようとしないけれど、当初は、理解していないという事自体が見ている人間には理解できなかった。



個人同士の和解など最初から問題ではないんですよ。あなたはそこを勘違いしている。だから議論は成り立たないでしょう。


所属していた団体の特殊性によって、個人レベルの問題ではなくなってしまった。社会を振りかざすなというが、公的な問題、私的な問題、確かにこの峻別はあります。今回のことに限らず、松永さんは私的な範囲とは言えない行為をされているが、そこへ今の自分の立場から客観的な説明を加えなければならないのだという自覚がない。


wikipedia編集にも、その意識は表れているのではないかと思います(参照)。野田氏への嫌がらせ行為に相当するという事(これはもっとおおっぴらに批判されるべき事だと思いますが)を除いても、対立の当事者が編集に関わるべきでないという感覚がない。尚更自分の項目に自分が触ってはいけないわけです(当初はやむを得ずという事であったようですが)。それこそ自分が物語などで書き、それを読んだ第三者が「本人は〜と言っている」と書く体裁を取らねばならなかった。その客観性の必要性が理解されていない。wikipediaが公的なものであるのは明らかですが、その公という感覚が松永さんには欠落しています。今回の問題を理解されない根も、おそらくそこにあるでしょう。



起こってしまったことについては徹底的に明らかにして、自分のスタンスを明らかにすることが必要になるし、それを書く事は結果的に自分を知らない人間に対しても信頼をもたらす事になる。これは本人の筆力があれば可能でしょう。


物語をやめた事によって、ある部分振り出しに戻ってしまった。彼は過去に二回脱会しながら戻っているし、それは当然見る者の念頭にあるわけです。過去には、脱会した今と峻別をつけなければならない行動が多いようにも見える。他人に対して信用を築く事は、社会で生き延びていくための手段でもあります。


社会に対抗する手段として物語を書くという位の気持ちでいいのにと思いますが。社会正義を振りかざす人間がいると思うなら、そういう人間が構成している「社会」から身を守る為に対抗手段がいるわけで、その必要性を感じないのは何だかんだいって甘い。圧力だ差別だと言いながら、それを言う事で圧力から身を守れると思っている。本当に潰されるとは思っていたら「俺はやらない」で済むと思えるはずがないんです。
こんな事書いたらまた怒るんだろうけど。