タイトルつけるにも困るが。


http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20061118/1163807966


このエントリを目にして、書くか書かないか、というのは結構考えていた。
この書籍については読んでいないし、活字を読む事に限界がある私にとっては、本を読むという事はかなり辛い作業になる。というか内容にもよって、はっきり無理なものの方が多い。


この本は、読めたとしても読まないかもしれない。


私にとってはそれは現実でしかないし、書きすぎれば生々しすぎる物にしかならない。そんなものは読まれたくもない。



現実、長く病むという事は鈍い唸りを抱え続けるようなものである。決して心を鋭く切り裂く悲鳴ではない。それは外の世界、社会には届かないものであり、人の目には見えないものだ。

その事でどんな状況が派生してくるのか、社会が圧力となって機能してしまうのか。私は社会の構造を、人の怠惰さというものから、裏から覗かねばならなかった。本当は元々、その程度の社会の構造は理解していたわけではあるが。


その怠惰さと自分は無関係ではありえず、この体を持ったことで、私は誰の事を非難することも出来ない。
体が現実に生み出してしまう状況について、きちんと書けば人にとっては有意義なのかもしれないが、あまり書く気にもなれない。社会の構造と声となって現れる事のない苦しみ、人の狡さ、弱さというものとの関係を語る事は、頭の弱いそれでいて過激なにーちゃんねーちゃんにはいい薬にはなるのだが。
この辺、別の切り方では家族がどう受け継がれていうことにもなるのだけれど、それもなあとも思うし。




つかこのエントリの話、ネットの興味とは完全に関係ないよなとか思う。



ある時既婚の女性の友人と話をしていて、「私みたいなのは結婚といっても相手の親が嫌がるだろうなあ」となんとなく言った事があった。彼女はその時「結婚は当人同士が愛し合ってするものなのだから、そんなものは関係ないわ」と言ってくれて、なんというか話が噛み合わなかった。彼女はその時結婚そのものも無縁ではない深刻な問題を抱えていたのだが、やはりお嬢さんなのだなあと思った事を覚えている。


ま、本音を言えば、親というより相手に理解してもらおうという方が無理だろう。理解というより、私の人生に他人を付き合わせることもできない。たぶん本の作者ともあまり噛み合わないんじゃないのかなと思う。
「それでも生きていくのよ」とは、私にはいえない。だらだらとは生きていくけれど。


本当は身内にも見捨てられるべきだろうとも思うが、このあたりもあまりに個人的な感覚になるので、晒しすぎても読む人を困らせるだけかとも思う。



病気というのは闘うものではなくて、あまりでも語る気にもなれない。語れるものでもないし、語られるべきものでもない。それは何よ、と言ってもまあよく分からない。



病である自分の存在からふと振り返ると、無音の世界をすっと首の後ろに感じ戦慄する時がある。
一人であって、誰とどうこうという物ではない。病に寄り添い、ある真実がそこにあるという事でもだろうし、なぜ身体を損なっているのか、問いと答えという形ではなく、答えがあるということなのだろう。病というのはひとつの表出でしかないのだろうが。



「理解されない」というのは私にとってはあるべき姿だし、「私の病気を理解して欲しい」という発想を持たない。そりゃ無理ってもんよというか、健康な人は本質的に健康でない人間の事は分からないようにできている。わかってしまえば自分も病気になっているということであって、それは当然の事でしかない。


近しい人に対してたまに怒ってみせるともあるのだけれど、それは見せかけで本当はたまに八つ当たりしたくなる、ということ。つーことで身に覚えのある人が読んでる中にいると思うのだけど、そういう事です。すいません。要はあまり事情を知らない人に、わざと無理言って甘えているというようなものでね。相手の負担を考えると、やっていい事ではないんだけれど、自分としてはあまりした事がないことなので、言いながらなんだかねと思いもしたのだが。




この二ヶ月くらいか、結構洒落にならない状況になってきている。まいったなあと思うし、半年一年くらい前から体力の低下が激しい。ここから回復というのも難しいのかな、という感じも持っている。



結局、治るという保証が無い。治らないという確証も無い。
洒落にならねーよと思いつつ、言葉に表しようのない感覚の中で、半日位ずっと過ごしていたりする。その状態が過ぎ去りかけた時に、自分が苦しかったということを自覚する。
といって、大きな上下の波があるわけではなく、24時間365日楽にならない。


意識が明確にならないから、他人のしている事はあくまで他人事である。体が重くないということが理解できないから、人は自分とは違うのだということも理解できない。目の前を行き過ぎる人々は、自分と同じ息をしていないし、私は人の心に関わっていく事ができない。それはとても物理的なことに由来しているのだが、結果は全てである。


この状態がどれくらい続いているのか、というと、書くと引かれそうなのでやめておく。その間ずっと機能していなかったかというと、そういうものでもない。まあこのあたりはわざとうやむやにしておくが、よくまあこの状態で体がもつよなとか思う。




こういう人間は私だけではなくて、他にもいるということでもある。
私はこの世界にいるようで、いないようなものである。落ち込んだような振りをしても、それは擬似だし、このまま人生おわるのだろうなということでもある。その事でじたばた大騒ぎするものでもないし、というか、破綻は来る訳だが、目は過ぎ去っていくものを捉えているが、足は地面に捕まって動かない。


今の世界では私は無いものになるわけだし、実際に自分の身体をどう解釈したらいいのか私はある程度知っている。東洋医学とかあっ、でもあるし、野口晴哉がどんなもんだったのかきちんと知りたかったとは思うし、でも私の状態では無理だった。
自分がある感覚を体得していたのはなぜだったかと思うし、そのせいで身体を損なったかとも思う。それはとても厄介な事だし、体得していた事、失った事そのものが世界のありようと関係しているのだろうなと思う。



あまりにも取り留めの無い文章になったが、医学って流行り廃りよねということであるとか。ころころ変わっていくものであって、社会との関係、そこからの影響というものがあり、人の身体意識というものが概念に関係してくるんだろうなとも思う。大きな枠としての時代意識てものも当然あるんだろうし、まあねえと思いつつ他人事だよなとか思っている。