正義の問題 等々

たゆたえど沈まず: ナチス的とは何か



相対と絶対というのは、この人の一貫したテーマだが。


結局こういう軸になってしまうから、議論ができなくなってしまうということではある。ナチスという言葉はその立場を「潰しに行く」無意識の恣意であり、それが実際にはしばしば機能してしまうことで、厄介な状況が呼び起こされる。これはもちろん、ブロゴスフィアという枠の問題ではない。私はブロゴスフィアという場所を、社会の縮尺スケールとしてみているところがあるが。




予め断っておくが、氏のエントリに呼び起こされた私の見方の記述であり、対立軸を描こうというものではない。



相対的正義は、個々人の中ではしばしば絶対である。その社会がその相対的正義を選んだのならば、それは「絶対であるべきもの」にもなる。その約束に従って社会が動いていき、社会においてその正義は前提として共有される。人の意識を形づくる一要素ともなる。このあたりはやや鶏卵的だが。その仮定の絶対によって、世界は回っていく。


その絶対的正義を形づくる意識によって、何らかの者たちははじき出される必然は生じる。正義とは自ずから他者に作用するものであり、自身の中でどういう脈絡で正義という感覚が作られるに至るのか、人の動機というものから考えるべきかもしれない。無論これは私自身の感覚でしかない。



何かの拍子に社会で運用されていた絶対正義はその偽りを引き剥がされ、激烈な変化をもたらす。その現象は社会的内心の絶対を否定したものであると受け取られるが、しかし実は「絶対」を否定したわけではない。共有されていた前提を覆しただけである。だがその変化は、人の心と社会に激しい破壊をもたらす。
私の内実を言えば、このあたりのせめぎあいが激しい。無駄な破壊を嫌うが、正義の嘘を破壊しつくしたい衝動に駆られる。まあだいたい、世界で起こっていることの縮尺ではあるだろう。




私は今回坂東氏の問題を取上げたが、この件は捉え方として様々なレベルがあると思う。私は批判派擁護派、どちらにも理があると考えている。全てはその個々人の立場と内心の表れでしかなく、もしくはどの文脈で読み取るか、無意識に選ばされた結果でもあるだろう。この程度の問題ならば、全ての言説を並列に受け入れたとてかまわないように思うが、そういう事にもならない。


政治的問題においてもどのレベルで捉えるかを選ぶことで、正反対の意見が出てくることにはなる。靖国などはその要素を強く持っていて、現在の対立軸はゲームにしかなっていない。私は参拝について小泉首相と近い立場だと思うが、「あのような戦争を二度と起こさない為」という首相の言葉を(これは「外向け」の言葉ではあるだろうが)、多くの批判者は無視しているように見える。以前バンドン会議での首相の発言が保守派によって(というか現実にはあれはかなり右な言論だと思うが)「あれでは村山発言と同じ」と批判された事があったが、端的に言えば、小泉首相は敗戦を受け入れている。ま、常識としては当然の話で、政治家がそれを判っていなければ困るのだが。




ナチスというと、最近ギュンター・グラスがSS隊員だったという告白があったが(この人の作品は読んだ事がないが、「ブリキの太鼓」だけ読んだという方が多いようである)、日本では限られた情報しかないにせよ、反応が興味深かった。詳しい事を書いているところがよく読んでいるブログの中で二つあったが、その捉え方も対照的だった。グラスに批判的立場を取っている方が、(グラスと対立的立場にある)保守派の言説がみな一様でつまらなかった、と書かれていたが、日本語でやってらっしゃる保守系ドイツ人のこのブログのエントリが、図らずもその意見を上書きしてしまっていた。最近は読んでいないが、基本的には見識のある方だと思っているのだが、この辺り日本の状況と重なるものがあるように思う。


グラスの85年のコール首相がレーガン大統領を伴っての慰霊碑に行った時の批判など(Wein, Weib und Gesang:不公平に扱われる英霊)、靖国問題を思い出すが、グラスの偽りを無視するとしても、もちろん迂闊に日本と同じに括る事はできない。


コール首相の見方は、本人の戸惑いから見ても、ドイツ国民のある部分の本音に近いのだろう。この辺、能力もないのでこれ以上は言及しないが、戦後言論の構図という意味では似た構図を読み取れる部分もある。



批判が行われるまでに存在してしまった事(またイデオロギー的意図の問題。存在の仕方が両者で違うが)、という文脈を読むとすればと、沖縄の集団自決のニュースがよぎったが、両者を並列にして触れるだけでも微妙ではある。



戦後のイデオロギー的変心の構図は日本でもあり、彼らの多くは己を「免責」してしまった。
やや問題の捉え方がずれるが、戦後戦犯の家族に石を投げた日本人のあり方は人に全責任を押し付けるものであり、その行為は恥ずべきものであっただろう。そしてその原因をGHQの誘導のみに帰結しようとするのも妙な話だ。
私の身内にも教科書の墨塗りをした世代の人間がいるが、そこで捨て去られたものは、考えていたより広い性質の問題であったかとも感じている。


それでも「負け方」としてはそれでも最上の選択をしただろうと思っているのだが、このあたり素直に受け取ってくれない人もいるかもしれない。「靖国については首相と近い」という一文で反射的に反応される方もいそうだが、それはもう勘弁して欲しい。





罪を負わなかった人間は指を指されるべきだが、はたしてそのような事がされるべきなのか。このところ政治向きに限らず考えることがある。


かなり混乱した内容になってしまったが、うまく纏まらない。
ちょっと問題があるかな。このエントリは。