現代商業デザインはなぜ「似てしまう」のか? 〜Midas氏のコメントから〜

五輪エンブレムはなぜああも延焼したか?』の記事に id:Midas さんのはてブコメントを頂いたんですが、「せっかくだから、そちらで記事にまとめてくれないか?」と尋ねたところ、ミダスさんから「そっちで適当にやってくれ」とのお返事を頂いたので、こちらでまとめる事にしました。

ただし広く読まれる価値があると思って記事化するのではあるものの、私自身はデザインについて素人である為、正確性を保証する能力を持ち合わせていません。

以上の事を念頭に置いてお読みください。


Midas 巷では「シンプルなデザインだから探すと必ず似てるものがでてきてしまう(主にデザイナーの人からの意見」vs「素人目にはパクりとしか思えないんだが…」になってるが誤り。これは現代の商業デザイン全てに特有な問題 (リンク

Midas ここ20年くらいの商業デザインは必ず通常は偶然と言われる確率より高い頻度で(普通なら盗作と言われても仕方ないレベルで)既にある何かに似てしまう。それはもともと何かに似せるかたちでしかデザインしてないから (リンク

Midas 例えば最近のフェラーリの新モデルはどれも同社の過去の名車と同じフェンダーのカーブや全体のプロポーションを持ってる。過去の文脈に添ってデザインしひとめ見て「フェラーリだ」と解るとこにブランド価値がある (リンク

Midas 問題のデザイナーのこのエンブレム以外の作品も既に指摘されてる通りどっかの何かに似てるのばかり。但しこの『引用』が必ずしも盗作とは言えないのは商業デザイン特有の『認識性』の問題が絡んでくるから (リンク

Midas 50年前に何がしかのシンボル、例えば男女公衆トイレのサインをデザインした場合の認識性とは『ひとめ見て「男」「女」と解る』だった。大量消費社会の到来と共にこのポイントが「既にある他の商品」へズレたのである (リンク

Midas 例えばAKBやEXILEがあれほど売れるのは主に広告を通じ常に既にどこかにある気にさせられてるから。「我々はポップ音楽を『はじめて』聴くことはない。ポップ音楽を通じ我々は自分自身(生活の一部)を聴いてる(Jameson,1979」(リンク

Midas 描写すべき現実(解って貰わねばならないもの)vs自分自身のオリジナリティをだしてかねばならない部分(似てしまってはならないもの)の配分がアバンギャルド正統芸術モダニティの時代と今では逆転してしまってるのである (リンク

Midas ああも炎上した最大の原因はコンペ発注時に「誰が見ても64年五輪の継承と解る様に亀倉雄策作品の文脈を引用すること」と条件をつけたから。雰囲気を壊さず似てるものを作れと言われれば自然と他の何かに似るのも当然 (リンク

Midas 故に森本のアレは上から目線ではなく主に関係者に向けられたやんわりした愚痴。「亀倉先生っぽく作ってね」と言われれば亀倉作品を超える傑作を生み出すことなど先ず不可能だし今やデザイナーもそんなこと思ってない (リンク

Midas 何もなかったが熱意だけはあった64年に比べ今や何でもあるはずがAKBしかいない(AKBに比べ美空ひばりはスーパースターだが誰も前回の開会式で彼女に歌わせようと考えもしなかった)。そんな中でのあのデザインなのである (リンク


美空ひばりというと、以前そういえばこういうものを書きましたが。