五輪エンブレムはなぜああも延焼したか?

東京オリンピックのロゴの問題で、今回のデザインとベルギーの「元ネタ」と並べてあるのを見た時に、単純にセンスに随分差があるなと思った。
佐野氏のデザインは色遣いが散漫で、白抜きのバランスが悪い。

最初にロゴを見た時、これは「マーク」に見えないと思ったが、全体のバランスがよく見える状態でその理由がよくわかった。


あっという間に情報が流通する現状では、どのみちこの種のトラブルは避けられない。
佐野氏の炎上の経緯は見ていないが、自分を看板にするような人にとっては、トラブルが起きた時の対処も評価される時代になってしまった。それが出来ないなら、「何もわからない素人」の戯言と腐したところで、単に自分が失敗したというだけの話だ。

先日のテイラー・スウィフトの非難を受けたアップルの「豹変」や、以前の米国大規模リコール時のトヨタの後手後手の対処による問題拡大は、基本的に今回の問題と同質だ。
事後処理の不味さとある種の社会性は相関性を持ち、残念ながら日本人はこのあたりの社会感覚が弱い(当然私自身もその日本人であるわけだけれども)。


今回ツイッターでベルギーのデザイナーの主張はあっという間に拡散し、佐野氏はそこで適切な反応ができなかった。
この一連のソーシャルメディアの機能を、おそらく周囲の誰も把握できていなかっただろう。時代を捉える事を身過ぎ世過ぎとする人々にしては、その振る舞いは実に滑稽だった。


デザイン側の主張がその度に感情的な反発を呼んだのは、彼らが(ある種理不尽な)非難を自身への物として受け止めてしまったからだ。
見る側は実際には(及び潜在的には)ロジカルな説明を求めていたけれども、彼らはその正反対の反応をした。表現という仕事が、そうした曖昧な感覚をすくい取る物であるにも関わらずだ。

デザインは客観的に評価される物である筈なのに、なぜ彼らは内輪意識を丸出しにしてこちらを「説得」に来るのか?
エンブレムのデザインについて評価軸を持っているなら、「業界的にいかに凄いか」「実績があるから盗用しない」などという言葉は、最初から出てこない筈だ。

しかし見る側にしても、自身の戸惑いをうまく感知できていなかったし、そしてそうした場は往々にして暴走する。


ひとつあともどりするなら、「盗作ではない」と説明するのは、当人からすれば悪魔の証明になってしまう。彼自身にすれば今はフェアな状況には見えないだろうが、ロジカルな説明ができないのもまた単に能力不足でしかない。
類似性の問題がどうしても出てくる事は説明可能だろうし、何割かの人間を場から去らせるのに100%納得させる必要はない。


今回説得の為描かれたウェットな物語は、現実に日本中のメディアに溢れている。今それを作っている人々からすれば、それは世間で通用している筈の価値観であるのだろう。
けれど実際には擬人化したアヒルや犬に多くの人がウンザリしているし、くだらないものに囲まれれば、最初からそれはそんなものだと思うだけだ。


一人が裸だと言われたら、周りも次々に脱いでいくのは観衆からすればひとつの見物だ。安藤忠雄氏のストリップを眺める時に、そもそも最初は黒川紀章氏だったのだと思い出す。
「ゴシック」とはかけ離れた女優を彼が魅きつけたのは、結局その身に纏った時代の華やかさであった筈だ。


そして「クリエイター」の人々が我々を責めるように、我々自身がおそらく評価軸を持っていない。
西洋への幻想が「創造」への過剰な期待を生み出したのなら、それはまた西への接触で消えて当然の物であるのかもしれない。

それもまた過剰な期待だろうが、私はなくなればいいと思っている。



【追記】
現代商業デザインはなぜ「似てしまう」のか? 〜Midas氏のコメントから〜 - エレニの日記