わたしが文章を書いていたのは、自分の感覚と世界があまりにも違うからだ。
子供の頃からずっとそうだった。

それでも、自分が感じている事は本当は他人が感じてる事とそう変わらないのだとわかっていたし、そうわかっている事を書いていた。

でも、そうして「人にわかるように」書く事が、自分の中でリアリティーを持たなくなってきた。
多分日本は、「本当でない事」があまりに社会を為しすぎているんだよね。
外の人間からよく揶揄されるように。


「表現」を生業にしているはずの人に、書く「動機」を理解されないのは、その人が自分の感じるまま何かするって事を知らないからだ。
彼らは未だに、外国の猿真似をしていれば「アーティスティック」なんだと思っている。

誰もがそんなこと知っているような事だけれど、それでも本当にそれが実感されてきたとも思えない。


他人の心を動かす事を、才能を欲しがる人間を、私は馬鹿だと思って見ていた。

人の心など簡単に手が届く。
全てのものを動かすことだってできる。

だけど、伝わればそれだけ人はこちらを遠去ける。
こちらを少し遠い目で見ながら、あなたは違う世界の人だとこちらを世界の外に追いやる。
彼らの視界からわたしを追い出してしまう。

いつか、どこか用意された囲われた場所で、自分にとって「安全な」物になって現れる事を、彼らはそこに座ったまま待っている。


ずっと、絶望的に思うのは、ここで「何か」を提示するには、それがパッケージングされていなければならない事だ。
あるべき物は「商品」でしかなく、そしてそれ以外の物を世間は忘れてしまって、若い世代はそうでない物を最初から知らない。
何か極端な物を提示された時、無知な彼らはそちらに簡単に流れるだろう。「パッケージされていない物」に一度も触れた事がないのだから。
今目の前に現われた物だけがリアルだと、根拠のない優越感に駆り立てられて、彼らは容易に一線を越えてしまうだろう。

自分が望む物がただそこにある事を、自分の手で欲しい物を作りだす事を、彼らは知らないのだから。
ここで、あなたの隣で、同じ温度で、揺り動かす事を、教養の無い大人子供が根こそぎ駆逐してしまったから。


安全に、安全に、ただ漠然とそのいる場所を動く術を、歳を取った彼らは知ることなく来てしまった。眼の奥はガラス玉のようで、何を言っても動かない。自分の欲望を満たす術すら、彼らは学ばなかったから。

あなたに心を動かされたといいながら、その目は雄弁に語っていたとしても、ただここからいなくなってくれと、彼らは口に出さずにただこちらを見る。



「なんて図々しい」
「自意識過剰な」


そうではなくて。わたしはあなたに証明し続けてきたはずなのだから。
あなたの欲しがってきた物を、形にして目の前に広げてきたはずだ。



幻想が人生そのものであるなら、そしてそうでしかあり得ないというのに、なぜあなたはわたしを外に押しやろうとするのだろう。
包装紙で包んで、砂糖菓子のように甘く、決して人を脅かす事のない、ありもしないものになれというのだろう。


わたしは「現実」が欲しかった。
自分には手の届かない物が。
そんなものありもしないというのに。昔話のハッピーエンドのように、世界はできているというのに。

あなたの現実など、あなた自身の願望と、怠惰と、心の隙間によってしかできていないというのに。


書き続けていてずっと、自分を信じていない彼らに、侮辱されるのに疲れてしまった。
彼らは決して気付かないけれど。
地に足のつかないその「表現」の為に私を犠牲にしたがっていた事だとか。彼らは一生自分の心を見やろうとはしないだろうけれど。


野心は必ず他人の犠牲を求める。
己の内を引っ掻く何かを、彼らは世界の前で自慢げに屠ろうとする。


あなたを殺してやる、と、その野心を眺めるわたしに、彼らは決して気付ない。
愚かならばそのまま籠にでも閉じこもっていればいい。
ただその愚かさに我慢ならないだけ。

もう二度と見たくない。
二度と書きたくもない。


傲慢なのはわかっている。
思うまま書くのは、自分の偏見を晒し出す事だ。
わたしはわたしの思い込みから逃れられない。どのみちそれによって生きているのだから。


不遜だと非難されるのを恐れて、自分は強者を脅かさず、いかなるものにも影響を及ぼさない存在であると、あなたは証明し続ける。


そんな物の為に、わたしは書き続けることなんてできない。
あなたのように、臆病にはなれない。