性的な欲求


男が性を通して自意識を描く時、それはしばしば相手への蔑みを伴う。

金で買うという理由せよ、相手の愚かさに己の哀しみを見ているという理由にせよ、成熟していない個体への疑似的な妄想であれ。


異性の目を通した性描写が世間に溢れている事に、女性は自分を慣らそうとする。
嫌悪感をあからさまにして笑い物になりたくないと、いまさら言っても仕方ないと、こんなのは今は常識で、自分は平気なんだと、幼い自意識で嫌悪感をごまかしていく。

その受容は、イメージとしてバラ撒かれているような性的な自由などではないし、受容と同時に生まれた己の内の違和感も消える事はない。


「媚びる」動作というのは際限がなくて、それを都合よく解釈しようとする動作も際限がなくて。



現実と、社会規範を離れた性的欲求の展開は、自らその暴力性を許容する。

自らへの抑圧は、その暴力性の解放の正当性だと彼らは言う。
弱さは際限なく弱さを求め、自分にはその弱いものが必要だと言う。
支配する為の、己の欲求を叶える為だけの弱いものが自分には必要だと。
己の臆病さに、自分以外の全てを下らないのだと自分に言い聞かせながら。


彼女は馬鹿だろうか?
いやそうではなく、あなたがそう見たいというだけだ。

他の誰もにそれが見えていても、運が良ければ周りの連中もあなたと同じ意見を言ってくれるだろうけれども。


僕の勝手さを許容するのがゲームだ、とある人が言った。
男の弱さを戯画的に描いたところで、押し付けるルールは変わらない。

私はずっと、苛々しながら聞いていた。

なぜ彼らは、自分の弱さで相手を喰い尽くしてから死にたいと思うのだろう。
なぜ決して、ひとり勝手に死のうとはしないのだろう。