「魚屋の娘のくせに」

わたしが物心ついた時には、美空ひばりは過去の大スターだった。
晩年ヒット曲が出て、そして危篤の報が出てから、マスコミは競うようにひばりを褒め称え始めた。彼女が紅白に出なくなった理由などは、どこかに忘れ去られたようだった。


幼い頃のひばりの歌声が、「子供らしからぬ」と非難を浴びたのは知られた話だ。
昔の映像を見ればそれもわからぬではないが、美空ひばりをくだらないと評する事が当時はまるでインテリの証左のようになっていた。


「魚屋の娘のくせに」

普段左翼ぶっている連中がそういう事を言ってひばりを貶めていたのだと、わたしは母親からよく聞かされた。晩年のひばりへの称賛の声の中には、当然その彼らの声も混じっていたのだが。


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フィルムに映る映画スターは、わたしにとってただその「映された時間」の中の存在でしかない。
作品とは本来そういう物だけれど、それでもわたしが「映された時代」の当事者であれば、このフィルムに夢中になることはなかっただろうと思う事がある。

昔チャンバラに夢中になった少年達の中に、少女である自分が混じっていたようにはあまり想像できない。わたしには、子供の頃から周りの好きな物をツンと見下しているようなところがあった。
少年達が阪妻に憧れたり、殺陣の真似をしたりするのは、今の子供が戦隊物のヒーローに憧れるのと変わらない。他方でそんな映画がバリバリの傾向映画*1だったりもするのだが、それでもやはり気取った女の子の見るものではなかっただろう。


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時の流れは本当の価値だけを残すのだとよく言われるが、わたしにはそうは思えない。何かが残るのだとしても、実際のあれこれは忘れられて外の殻だけが残っていく。

自分から見えているものも、自分が欲しているものも、過去の中に見出だす事はできるけれど、それでもいつも「それ」と自分のなかに結ぶ像との間には、微妙なズレがある。

それはそんなものだ、と言えば終わりなのだが、そのズレが自分の世界を侵食しているようにわたしには感じられる。
己の視座と欲望が、自分自身であると思えなくなる時があるのだ。

*1:https://kotobank.jp/word/傾向映画-58677