不在の感性

微妙に思うのは、自分が思っていたよりパンクムーブメントの影響を受けているという事だった。
そう呼ばれるような音楽を熱心に聴いていたわけではないし(ただしわたしの世代の聴く音楽は、皆その洗礼を通っていたわけだ)、わたしにとってそれは単なる音楽に過ぎなかったけれど、パンク以前以後の感性というものは確実に感じる。自分が「そこを通った」感性に属する事は、何かの拍子に気付く。


過去の音楽を聴く時の窓はたいていそこにある。懐古主義でなく、過去にエッジの鋭さを求める時、必ず共振する感性があるからだ。
日本の音楽評論を見ていて感じていたのは、何か「究極の感性」のような幻想を求め過ぎる事だった。いわゆる日本古来の舶来信仰ではあるし、それで随分といろいろと歪んでいたなあと思う。音楽を語り合う連中が陥るのは、鼻持ちならない選民意識と淀んだ感性の再生産ばかりで、いい加減うんざりだった。


淀みをなぜ潔癖なまでに嫌うのか、自分でもよくわからない。ただ今になってわかるのは、この性質はたとえ老いても変わらないという事だ。
時にこれは周囲に対して残酷に作用する物でもあるし、自分の孤立を深める要因であるのもわかっている。それでも、これ程どうしようもない状況の中で正気を保っているのは、このせいだということもまたわかっている。


書き続けていると、必ず自分の考えでこちらを覆おうという人が出て来る。厄介なのは、それに合わせて無責任な同調者も現れる事だ。現状のネットでは(少なくとも日本では)その構図から逃れられない。それは多くの人が書く気を失った一因だし、わたし自身も書かなくなった一人だった。
笑ってしまうのは、過去にそう言って私を責めた人は、その構図の中にはいなかったという事だが。


内心こちらに批判的であっても、黙って近づいてくる人もいる。そういうのはたいてい、こちらから内心の葛藤まできれいに見えてしまう。何よりも、その人が自分自身にしか関心の無い事が。
過去何度かその種のものに怒りを感じた事があって、直接一度も接触してこなかった人が、「やり返し」をしてきた事に気付いたこともある。その人は自分の卑怯さを、ただ小心さとしか解釈していなかっただろう。自己嫌悪は無自覚ないい逃げ場でもあるから。


自分自身への批判を、自分は結構そのまま受け取る。理不尽な反応と共にされたものでも、するっと聞いている。自分の気付いた限りにおいては、だけれど。こちらを責める気持ちは、向こうが期待しているよりきちんと受け取っている。
そうしていると、自分の気持ちや置かれた位置があらためてクリアになるものだ。それは結構おもしろくもある。



なんというのかな、身体がしんどい時に書く事は多くて、その吐き出しが外には整った文章に見えてしまう事もある。その齟齬に救われることもあるし、反対に自分の許容を超えてしまう事もある。
他人の呼び掛けに応えようが無い時に、わたしに与えられた言葉はない。自分が失ったものはわかっているし、その喪失が必然だったのか、そうではなかったのか、結局答えは出ない。
自分のおそれというものが何か。それでぐるぐる回っている。


現実とおそれとは、関係あるんだろうか。己の置かれている現実は、自分の対処できる範囲を超えている。
誰かに魅かれるのは、その現実とは関係がない。こうやって書かせる何かも、対処せねばならない現実とは関係がない。
人生を捉える事ができなかったという意味では、わたしは特殊な状況にいただろう。その不完全さから、私は全てを始めねばならなかった。
書いてどこかに届いて、また遠去かる。また誰もいない所に戻っている。


現実はどこにあるのか、わたしにはわからない。正気なまま何もかもなくしていく事が、どれだけ惨めな事なのか、自分がわかっているとも思わない。
ただ感情だけが、生きている証のように思えたし、それが全ての間違いだったようにも思う。