Belle de Jour

チャンネルを変えながらBBCの"HARDtalk"*1を見ていた時、急に女性の言葉が耳に入った。

「売春婦が殺されると、『女性が殺された』ではなく、『売春婦が殺された』と言われるんです」

顔の右半分に傷痕のある美しい中年女性はそう言った*2


私はそういえばそうだなと少し考えこんだけれど、しばらくして幾つかの事に気がついた。日本ではそもそも被害者を売春婦とは明確には呼ばないだろう事、職業は報道で曖昧に伏せられるか、若しくは売春婦を意識的に標的にする殺人自体、今の日本では具体性を持って想像され辛い事(もちろん過去にその種の事件は存在してきたのだけれど)。

どのくらい前か英国で売春婦の連続殺人があって、英国本国でのあからさまな蔑視とスキャンダラスな報道ぶりに驚かされたことがあったけれど。


もちろんここで幾つか連想される事件はあるわけだけれど、今ここでは敢えて触れない。
売春婦を狙う心性には、やはりまた欲求に絡みつく鬱積と衝動があるのだろうけれど(性的衝動より、彼女らが人間扱いされない状況によって狙われるのだと冒頭の彼女は言っていたが)、英国での波紋や社会の反発の激しさそのものが、事件の動機のいくばくかを透かしているようにも見える。


「思うような人生」が己の手には無いのだと悟った時、その「何か」がどこに向けられるかは、おそらく意識がどう社会に支配されているかによっている。
自分が意識しているよりもよほど、誰もが例外なくひどく短絡的な反発の感情に支配されており、「思うような人生」は、しばしば子供の幸せな夢の続きなのか、メディアの刷り込みなのかすら判然としない。


何かといえば『根源的な動機』を求めるのは、我々の幾つかの世代に跨る思考の癖といってよいのだろうが、日常的な意識の内の、あまりに卑近な動機の曝露は、現実には社会の「お約束」と、集団の性的な意識とを映し出す。
それは果たしてタブーと呼ばれるものか、それとも視界に入らない意識の横っ面なのか。

事実は、初めから何も隠されてなどおらず、――横に立って見れば――我々の開いた口と脱げかけた下着が見えるということでしかないのだろうが。