貧困という言葉

@hamemen 白石草
生活保護受給者数が、過去3番目というニュース。 200万人を超えていた1951年と1952年は、毎日放送やTBSがラジオ放送を開始し、力道山がデビューした戦後復興期。その時代の水準に迫ってる。還暦の人が「おじいちゃんの子どもの頃は、日本は貧しくてね」とはもう言えない。


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この人がどうこうってんじゃないけど、こういう論調っていつも違和感を感じる。
具体的にいえば、人口比とか単純なこともそうだけど、誰もが安価な食事にアクセスできることとか、社会インフラの充実も違う。生活保護の手厚さも違う。当時の社会を担っていたのは戦前世代で、その頃は教育の平等の前提が全く違った。
貧しさの質は、今と戦後すぐでは全然違うんだけどね。食べ物が手に入らないという事はないんだ、今は。今と当時の違いを知りたいなら、海老名香葉子さんにでも聞けばいい。
ひきこもりをとりあえず受容できるのも豊かさであって。


団塊の世代の無責任さを考えれば、その当事者たる今の還暦に何を言う資格もないとは思うけど。

なぜ「おしん」がアジアなどで人気が出て、日本へのシンパシーを産んだかと言えば、それは貧しさの感覚の共有だっただろう。まだ日本にはかろうじて貧しさの記憶が残っていて、過去を貶めることなく、自分へと続く親や、その親達を道程として見つめている日本人が見えた、。だからこそ、途上国でのあの熱狂を産んだ。

まあ、あの脚本家、私は大嫌いだけれど。


そういえば「渡る世間」の中で、高校に進学したくないと言う子供に反対する親に、子供のやりたいようにやらせなければ、既存の仕組みや考えににしがみつく大人は悪、てな如く描いた回があった。こういうエセ左翼的な圧迫メッセージがいろんなとこにちりばめられてたのが戦後の日本だったなあ。

中卒で社会に出ることがどれだけのハンデなのか、昔のお嬢さん大卒の脚本家さんには全くの他人事であって。
夢を食っては生きていけない。人と違う道で成功してる人間なんか、本当は一握りで、アウトローの吹き溜まりだったはずの(この脚本家のいた)映画界ですら、大卒採用に移り変わっていった。


学歴がなくてしんどい目に合った人間が、子供に大学まで行かせたというのが日本のある時代のステレオタイプで、かつ日本全体の成功の一因だった。今の中国や韓国を見ても、在外の中国系移民を見ても、教育をつけることがどれだけ彼らの武器になっているかわかる。
日本で学歴を否定した連中はほぼ、安田講堂や早稲田にいたか、憧れたかした系譜の人間たちだ。自分たちのロマンティックを都合よく他者に仮託し、その上で反論する人間を徹底的に攻撃した。
日本の教育システムは問題だらけだけれども、それでもそこから外れろとまだ今は言えない。今が一種の国ごと集団自殺のような状況であるのかもしれないとも思うけれど、それでも学校に行くなとは言えない。息苦しくても、生きてけるなら十分ましであって、その可能性を狭めるような選択はさせられない。


ゴーギャン的逃避の劣化版を説いて回る奴は死ぬほどいたけれど、その誰も自分が「土人」とは思っていなかった。
「貧しい」という言葉には階級的な意識が潜んでいる。仕事がなく金がなくても、今の日本では貧困という言葉には必ずしも結びつかない。表面上均質な現在の日本社会では、自分の状況を世間に知られたくないと思う(ような状況にある)人間ほど、貧困という言葉を括りつけられるのを忌避する。その区別にこそ、本当の差別が発生すると知っているからだ。
貧困という言葉を無神経に持ち出す人間は、必ず潜在的に、階級的状況が「ある」ことを望んでいる。それが思想的背景を持つ、疑似的なものでしかないことが救いではあるにしても。



ある脱北者の話の中で、食糧不足の時、日本人妻は盗みをしなかったから生き残れなかったというくだりがあった。それはあまりに悲しい話だけれど、でも同時にそうだったろうとも理解できてしまう。過去の中で貧しさは沢山の悲しみを内包していて、それでも人が毅然としていたから今の圧倒的な富に結びついているし、そのうえで、その本質を失くしたならこの国は沈没するのが当然かな、とも思う。
私は戦後の気分って、ずっと嫌いだったんだよな。