子供は、その環境の鏡でしかない

子どもたちに「唯一の正解」だけを教えるのは、たしかに良くないと思う。そして、人にはいろんな考え方があるんだよということを教えるの教育の役割だと思うのだが、それを実践してみると、思わぬ困難に出くわす。子どもに「これには複数の解があって、それぞれよしあしがあること、組み合わせることもできること、人によって考え方はちがうかもしれない」などと教えると、子どもはそれ以上議論をしなくなってしまうのである。


(略)


人それぞれの考えがあるとして、ではそこから私たちは何をしたらよいのか、何ができるのかを考えること。それを考えることが大切であることを、子どもに示さなければならない。


唯一の「正解」がある - Sound and Fury.::メルの本棚。


元記事はこちら。

asahi.com(朝日新聞社):正解は「妹を殺す」 教諭、小3の授業でクイズ 杉並 - 社会
「正解は『殺す』」の何が不適切なのか - H-Yamaguchi.net - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース



引用エントリは最終的に、Yamaguchi.netの記事から一回りして元に戻って、というようなオチになっているので、事件の全体的な構図はここ(このエントリ)で書くことには関係しない。「なんで人を殺してはけないの?」の方向に行くような気もするがあえてスルー。
子供が議論をしなくなる、というのはそうだなあと経験上頷くところ。いかにも日本的な空気でもある。

ではそこから私たちは何をしたらよいのか、何ができるのかを考えること。それを考えることが大切であることを

この部分がわたしとはわかれるなあ。
必ず自分自身がどこに立っているか、というのが前提にある。我々は行動を、それぞれの生きている場所に拘束される(この「場所」とは抽象的な意)。わかりやすいのは人種や宗教だろうが、それよりもそれぞれの「生活そのもの(その背後にあるもの)」が違いの本質だ。しばしば人間がステレオタイプに見えるのは、己の拠って立つ場所から逃れられないからだが、戦後教育だと拠って立つところを無視することを「自由」とした。それが白人の思想である、と日本人は解釈したのだと思う。
千年以上前からの、この筋金入りの舶来コンプレックスは、この国に根幹の思想を育まなかった。良くも悪くも、生きればいいさ的な日本的いい加減さの土壌であり、舶来物を金科玉条としながら都合のいいように換骨奪胎する歴史は連綿と続いている。
話がずれた。

こんな懸念をもつのは、今自分が実際に接している学生たちに、常に正解を事前に確認してから行動しようとするかのような傾向がかなりはっきりとみられるからだ。学校教育が「正解」のみを教えるといった批判は、今に始まったことじゃなく、受験戦争とか言われてたずっと昔の頃からあった。でも、今の「正解」指向は、そうした教育を受けて大人になった私やその少し下の世代と比べても一線を画すほど明確なものになってきているように思う。個人的な感覚でしかないが、彼らからは、「正解」そのものへの欲求というよりは、他人の目や世間的な基準による評価を気にして「バカをやりたくない」「回り道をしたくない」という恐れのようなものを強く感じる。これはおそらく、保護者の側が子供に「まちがわせたくない」、もっといえば「まちがいを許さない」と考えていることの裏返しで、1点めとして挙げた、何かあればすぐ大騒ぎすることと通底するものがあると考えていいのではないかと思う。


「正解は『殺す』」の何が不適切なのか - H-Yamaguchi.net - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース


保護者の過剰反応についてはこの部分。

10月19日に起きたできごとに対して「保護者からの匿名の投書が21日に岩崎校長に届き、発覚し」、「23日に臨時保護者会を開き」、校長謝罪、それが 23日当日にニュースになるという、なんともスピーディな展開。ふつうの区立小学校のできごとをわざわざ追っかけてる記者なんていないだろうし、プレスリリースが出たようすもないから、ご丁寧に新聞社にたれこんだ人がいたか、あるいは新聞社関係者が近くにいたかなんだろう。

違和感を持つのは右に同じだが、子供の弱さ→親の過保護という図式をまず持ってくるのは、いかにも評論家的なバイアスというイメージがある。(この方にその臭みはないけれど)



「自由にやりなさい」という教師の言葉は、妙な響きを持っていた。『自由イデオロギー』みたいなものがあって、それに拘束されることを求められていると、子供はきちんと嗅ぎ取った。
正解のみを教えることも問題ではあるかもしれないが、小学生レベルでは多くが詰め込み学習の範疇だからさほど問題はない。問題はむしろ潜在的なコントロールだろう。大人世界の政治の、教育への反映を、子供はきちんと織り込んで、決められた場所につこうとする。


マスコミの情報コントロールも大きいだろうし、気まま勝手に見える若い女性が一番行動を(マーケティングに)コントロールされているのは、普段は意図的に隠蔽されている。
子供が周りの顔色が窺うようになったのは、単純に世間の力学の反映だ。ある種病的に依存しあう世界の中で、それに合うように軽く病んでいるというだけのことだろう。
我々は牽制し合いながらお互いを縛り、潜在的な怖れで社会を形作っている。その力を子供は、進むべき道しるべと見て絡めとられている。おそらく少し昔、それはただの道しるべで、力なんかではなかったのではないか。