文章の話

ブログを書き始めて分かったけれど、書く人の中には切実な動機を持っている人がいる。それに気づいてからは文章の見方そのものが変わった。スタイルは様々で、文章の完成度も評価も関係ない。読まれる最低限の基準すら満たしていない文章の中にも、そんなものがある。


書いているうちに生きる中のしんどさが文章に溶けていく。境がだんだんあいまいになっていく。目の前の文章に心がそのままあるように見える時は、その人と自分はおそらく感覚を共有している。

読む人に見える形にせよ、まるでしんどさが見えない形であっても、”書かせている”ものはあまり変わらない。どうにもならねえなあと思って、ああこの人もどうしようもないんだなあとわかって、結局思い切れないものが互いに見える。
書いていることと、自分の内心との乖離というのが微妙にあって、その居心地の悪さすらなぜ同じなんだろうと不思議な思いに駆られる。


昔のネットで関わった人の中に、何人か心を病んでしまった人もいた。混乱のしっぽが絡みつく姿が感じ取れて、その人の目が見ていないその人自身が見えてしまっても、彼らがどう間違って苦しんでるかなど私には理解できない。たぶん間違ってなんかいないのだと思う。
自分の意思がぶれずに見えている人と、見えていない人間に言うほどの差異はない。もう現実を見ない子供には戻れないのだから、間違えた場所から、私ももう戻ることはないんだろう。