振り返ってみて、自分が相当な性格だったことに気がついた

なんというか私の周りには異常なほど神経の細い人が何人かいたのだが、その一人の近況を耳にしてちょっと脱力してしまった。その人の対人恐怖症に付き合わされて私は相当苦労させられたのだが、私はずっとその手の人達に付き合わされ苦労する役回りだった。


横にいる人間の神経の針のような反応に「常に」気を遣っていた状態は、未だに私の対人関係にも悪影響を残している。ちょっとしたことでヒステリーを起こされるのでいつもびくびくしていた。当時繊細とか弱いとかいうのはこういう人のことをいうんだろうなと思っていて、自分はそこからまるっきり外れていると認識していたのだが、悪いが彼らは繊細でも才のあるタイプではなく、目の前のことから逃げまくる、俗っぽい臆病さと弱さがイコールで結ばれる人達だった。


私は結果的に何事もアクションが大きく、振り返ってみれば彼らよりかなり山あり谷ありだったのだが、日常的には彼らを優先させていた。まあ自分のことが割とどうでもいい性格なのでそういうこともあるのだが、今回耳にしたことで「そうかそういう人に付き合わされていたのか」と力が抜けた。合わせてはいけない人に合わせていたのだといまさら気がついた。人間いくら怖かったりいやだったりしても我を折ってどうとかしていくものだが、彼らは絶対にそれをせず自分の恐怖感しか見なかった。私に課せられた役目は彼らのその恐怖感をあやしながらとりあえずの道に誘導することであって、その相手が一人であればまだしもだったのだろうが。結局彼らは自力で乗り越える道を探す方法すら見つけなかったわけだ。


自分が周りから繊細な性格に見られても「ちげぇよ」と思っていたが、今考えてみればそっちのほうが合っていたんだなと思う。まあどうでもいい話だが。彼らの「支配」から意図的に自分を外すようになってから、外目にも私の地が見えやすくなってはきたらしい。・・何が書きたいかなあ、私はこのエントリで。


とにかく要のところで喧嘩する。相手を激昂させるか、もしくはなめられたら負けという現実認識において相手に対しての示威行為として。これを社会的地位のある立場の人間と、そいつの領域でやり続けたというのが私の状況で、相手を激昂させることを一方で絶望の目で見つつ、一方ではっきりと楽しんでいた。自分ながら厄介極まる性格だなと思うし、何でこう攻撃的なのかとも思うが、そうしないと実際私は困った立場に追い込まれた(というか、してもあまり関係なかったので喧嘩はやはりただの趣味かもしれない)。


ほっておくと単独行動にしかならない。行儀は良くおとなしいのだが態度はどことなく不遜。
これじゃただのバカだが、実際私はそういう人間だった。まあこういう人間は中身があれなのだよなと他人事のように思う。
目の前のことから逃げるよりゃマシだっただろうし、弱さというものをだらしなさとイコールで見ていたから、生き難さというものの中身をちゃんと見ていなかったか。