連なり

このところ現実で問題が続いてかなり消耗していた。公園をしばらく歩いて頭を冷やしていたが、どちらにしろ問題はとっくに私の手を離れてしまっている。
もう解決する事はないだろうと漠然と思う。破綻寸前に見えながらなぜなかなか終わりがこないのか。過去にとりあえず区切りをつけたあれこれは、結局形を変えて覆い被さってきている。うんざりするような現実の中で、問題は結局同じところに舞い戻る。




たとえばある人が、老いた母親に散々極道をしてきた父の悪口を聞かされて、「それはお袋の気にしすぎだろ」と言う。母親はそこで「何のために子供を育てたのか」と烈火の如くに怒り、数日たって死んでしまった。
子は往々にして親の痛みなどわかっていないものだ。私も痛みが分からない種類の人間であり、そのせいで追い詰めもしたのだろうと思っている。たとえ親が死んでも負債は背負っていくものではある。



たとえば自分の母親が誰かに追いつめられて死んでしまったとして、それを覚えている人が誰もいなかったとしたら、彼女の無念はどこへ行くのだろう。子供である事は鈍感に幸せな事だが、母の何も覚えていなかったとしたら、それはあまりに無惨な事だと思う。親子であるからと言って痛みを分かち合えるわけではなく、その子供にとっては分かち合う相手を永遠に奪われてしまったという事でもある。
喪失は時を経て収まる所に収まらなければいけないのかもしれないが、塞がる事のない傷口がある。誰しもそういう傷を一つや二つは持っているものだが、その苦しみを誰かが感じるという事でしか、連なっていく事はできないのかもしれない。



「あなたは生きようとしないのか」と何度か言われた事があって、「このまま死んでもそれはそれ」と言ったら、「それは見ていてわかる」と言われた。生きることに貪欲な人間からすれば、私は理解できないのだそうだ。

しかし私が生きることに貪欲であったとしたら、とっくに気が狂うか自殺するかしていただろう。そこまで夢中に絶望する事はできない。永らえる事に意味があるのかと言われれば分からないが、生きるだけは生きるものなのだろうと思っている。



悪夢などあまり見ないが、昨夜うなされて目が覚めた。私にとっては自分の不幸すら芝居の如く他人事だが、人ばかり苦しめて自分がこのままここから消え去るのなら、それはその人を裏切る事でしかない。苦しみは自分の身体と執着の無さから連なっていて、その空白の前で私はずっと立ち尽くしている。