バブルというと

バブルといったところで、実質その時代について私は何も知らないわけだが。
また、あの頃金が回っていたのは実はそんなに広い範囲ではなくて、一般人にはさほど関係が無かった。せいぜいが主婦が株をやるとか、持っている土地が上がったとかそんな程度で、周囲にに不動産関係や広告代理店の人間はいたが、何か話を聞くということもなかった。




バブルそのものより、崩壊の方が多くの人に影響はもたらしたのだと思う。私も多くの人と同じに、自分が関わった部分からしか覗く事はできない。
三人の社長が自殺した事件は今も鮮明に覚えているが、あの頃はしょっちゅう自殺の報道がされていて、子供ながらに現実の冷酷さを見せられる気分だった。
こんな風に追いつめられる事はこの先他人事でもないのだろうと思ったし、自分の周囲でも財産を殆どすべて失った人がいた。


そんな中で名の知れた大企業や金融機関が何の後ろめたさも持たずに汚い事をするのを私は見たし、それは多く、ほんの少し自分の所属する企業が延命する為の処置に過ぎなかった。実際その後いくらもたたず会社は潰れていくのだが、その無駄な行為と帳簿上の操作は「おかしな」軸で回っていた。皮膚感覚の怠惰は全てを理解するが、行為の合理性はどこにもない。そしてそんな全てが違う母体の元に延々と受け継がれていったわけだが。


その処置の為に少なからぬ人間は破滅に追いやられたのだし、処置を行った人間は、眼前に見えているはずの自分の行為の結果を、見てはいないかのようだった。

彼らは自分が破滅に追いやろうとしている人間に投げた言葉や対応がどんなものだったか、おそらくすぐ忘れただろう。それほど無意識のままに行っているように見えた。人のくだらなさというのはこんな物なのだろうなと、その時思ったし、怠惰と無意識の内に人がどれだけ過酷な事をするのか私は学んだ。



社会悪と呼ばれるものの実体はそんなものに過ぎないし、ある立場に立たされれば、自分も怠惰の元に誰かを蹴落とす。構造の中で誰しも圧力になりうるのだし、それを指差して糾弾するのは笑うべき所業でしかない。




子供であった自分はその怠惰と無意識を憎んだかもしれないし、今も憎んでいるし、また別の次元で私は、まさに同じ形の圧力によって全てを失う事になった。いや、そんな圧力などなくても、私は最初から何も持っていなかったのだけれども。
けれども、全てを失っていく過程であさってを向きながら自分に投げられていくものを―多くの人がそうであったように―茫然としながら受けていくよりなかったのだと思う。


それは確かに世界の一つの見え方であって、誰しもそこに見る感覚を体の内に持っている。それをどのように意識するかというだけの問題であり、多くの人は、私と同じように喪失の記憶と共に当時を思い出す筈なのだ。




桃源社だったか、不動産関係で莫大な債務を残した会社があったが、バブル後決まって「人間借金したら返すという事をあなた知らないんですか!」とインタビューで詰問されていたのを思い出す。こちらは苦笑を超えてうんざりしたものだが、その社長もよくキレないものだと思って感心して見ていた。考えてみれば取引先に遥かに物凄い言われ様をした筈だし、ヤクザに脅されるくらいのこともあっただろう。頭の弱いアナウンサーなどどうでもいいものであったかもしれない。


彼が頻繁にインタビューを受けたのにも、一方的に悪し様に言われるよりはということがあったか。インタビューしているそう若くもない女のアナウンサーを見ながら、こいつは彼に金を貸した大手金融機関に同じだけの金切り声で迫れるものかと思ったが、この頃のマスコミの対応の濃淡には興味深い物があった。


今更「返せる」はずもない金を、子供レベルの社会正義で断ずる事しか殆どのマスコミはしなかったが、そこで多くのものは清算されずに残った。橋本元首相は批判されたが、大蔵省は何をしたか、すればよかったのか、どう位置付けられたのか。中小企業は問答無用で潰れたが、形を変え残った中で、あの頃見えていた闇との交差はぐちゃぐちゃの中で消えたのか。




当時金融機関に勤めていた人に、以前「では我々はどこまで責任をとればよかったのか」と言われた事がある。トップが入れ替わって、多くの人間がクビになり、マスコミや多くの人間に理不尽なまでに叩かれ、今更取り戻し様もない金と全てを、一体どうしたら良かったのかと。
何も判らずにしゃべり続ける自分をふと糾弾されたようにも思ったが、私は結局適当にだけ返事をしたように思う。そうせざるを得なかったのだが。



誰が誰の立場から何を見るのだろうか?


そしてそれでも言うが、私が鮮明に覚えているのは、山一證券の社員たちの姿である。報道するマスコミの姿勢も含めて、私には日本の当時の姿を象徴しているように見えた。




金の流れが巻き起こした中で、責任の所在はどこにあったのか。
確かに逃れた連中はいるが、その汚さを咎めた所で詮無いことだ。突き詰めれば何も分からなくなる。



バブルで踊った中で、どれだけの人間が「自分の金」を手にしたか疑問だが、終わった結果人生を失った人間は多かった。
BB氏の所を読んでバブル当時も自殺者が多かった事を知ったが、私はその位置から何かを見る事はできない。


私は子供ゆえの無力さを思い知ったが、無力さは結局今も変わらない。
あの頃からある気持ち悪さに取り憑かれて、未だにそこから逃れる事ができない。自分が残された何を知るはずもないが、その生々しく息苦しい感覚は私を捉えて離さない。




誰も目の前しか見ていなかったのは事実であり、踊っている時も、終わりつつある時も、今に至っても、誰もその姿を捉えていないように思う。

書いていてよく分からない。