新潮45の坂東氏の記事

単純に、死の隠蔽も猫を愛玩物とすることも、現代世界中で行われていることであり、問題を日本人に帰結しようとする所に明白な論理破綻がある。
読んでいて意見を同じくする所もあったが、この人はこれでわざわざ殺すのかと思った。彼女は自分で思っているほど、自分を突き詰めて考える人ではないだろう。


坂東氏は「死」というものを扱いつつ、人間もしくは生き物そのものに意識を下ろしていく事をしない。日本人という枠に原因を求めようとするのは、いわゆる日本人的な「ぬるい」意識の反映ではあるだろう。また日本人云々の部分の理論を構築していった時、議論相手のフランス人も参加していたかどうかも知りたいところではある。参加していたとすれば、そこには日本人への差別意識も潜んでいたかもしれない(これはまるっきり不確定だが)。


どちらにしろ、あまりできのいい原稿ではなかった。




以前の、坂東氏が子犬を殺したと思われる記述では(これも本当に殺したかは分からないが)彼女の混乱と幼稚さを感じたが、勝手な感想を言えば今回理論武装などでなく、その彼女の弱さと混乱を書けなかっただろうか。パニックに陥っていたその時、彼女は今書いているような御大層な事など考えていなかったはずである。




批判されるとわかっていて踏み込んだなら、もっとじだばたしてみろよと思う。馬鹿な事をしているのだろうがなんだろうが、自分なりの正当性を主張しながら、作家なら自分の馬鹿さ加減も書いてみろと思うが、この人はそこでいきなり守りに入ってしまった。
私自身にも自滅癖というか、自分への評価を徹底的に貶めないと気がすまない厄介な行動原理があるが、坂東氏は自分が馬鹿野郎である事を認められないのかなと思う。



タヒチの議会でまで問題になっていたことは知らなかったが、私も含めたゴーギャンかぶれの人間に中途半端な誤解を受けてポリネシア政府が迷惑したのは確かだろう。自分のやったことの呼び込んだ結果をどうしていくかは難しいし、時に取り返しのつかない事になるのだが(もちろん自戒も込めて)、彼女には、せめてもうちょっといろんな意味でじたばたして欲しいなと思う。


http://news.www.infoseek.co.jp/society/story/20060925jcast200623098/