命題の話であるとか

http://icanthelphatingsex.g.hatena.ne.jp/noon75/20060925/p6


当時私は「私は坂東氏の行為に乗じて、自分の考えていることを書いているに過ぎない」と書いたが、きれいに結果が出そうかなとも思う。もちろんこれは私以外の人間についてもそうであるし、坂東氏には(あとで気がついたのだが)犬殺しの話もあるが、まだフィクションと決まったわけでもない。



何を命題に置くにしても、人の持つ背景や傾向によって捉え方が違い、人それぞれに全く違う景色が見えている。同じ命題を置いても、議論をする上で致命的なほどの溝が生まれるのはそのせいである。
明確に意識となる以前のあいまいなところで人は多くを判断している。それはしばしば第三者からは明確に見えるが、誰もくびきからは逃れられない。


何を考え始めるか、というのにはその時自分が置かれている状況が影響するのだろうし、影響を直接与える部分はそれぞれ具体的な独立した事象に見えるが、多くは時代性に帰する。その具体性の結果の連続が時代性を産んでも行くのだろうが。普遍的である事も、あまり重要ではないのだが。


そして「考える」上で「これ以上は踏み込むな」という境界も同時に設定されている。外側から意識が規定されているのだが、外にだけ原因を求めていいかというと、それも違うだろう。
宗教というものがその境界をぶち破っていくものではある。そして世俗的な宗教というのは逆に境界を設定するものになる。



神はしばしば「私を信仰しろ」と言う存在であるだろうが、物言わぬ存在でもある。見てはならぬものであり、融通無碍に変化するものでもある。神と人の意識は密接につながっており、神の形は人に影響されその生死をも左右される。



人の中の意識に上らない曖昧な部分についてよく考えるが、今回は書くべき事があまりまとまらない。